ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

文字の一人歩き

2006-05-01 06:19:46 | 脳みその日常
思いついた言葉を検索サイトに入力し、enterキーを押す。すると、たちどころにその言葉の記されたサイトがずらーっと出てくる。面白いので、ついつい時間を忘れてやってしまう。「へぇー、こんなサイトがあるのか」と毎回驚きの連続だ。

検索されるサイトにはもちろん見るに値しないものもあれば、学問的な論文が書かれた「高尚な」ものもある。面白いなと思うのは当然後者のほう。そのサイトの管理人がどのような素性なのかはしばらく読んでいればだいたい察しがつく。マニアであれば記述に何らかのバイアスがかかっているし、学者の記述ならばそれなりの客観性が見えるからだ。その意味で、いくら匿名であっても書いた人の素性がわかってしまうのは面白い。しかし逆に言えばわかってしまうだけに恐ろしいという面もある。

専門的なサイトをあれこれ見ていてふと思ったのは、なぜそんなに難しい言葉で表現するのだろうかということ。たとえば、ある作曲家の作風を解説したものを読んでみる。まあ、記述内容に大きな間違いはないとは思う。

でも、当の作曲家本人がもし読んだとしたらどう思うのだろう。本当にそんな形而上学的な考えをもって日々生活していたのだろうか。もしかしたら本人は「そんな大それたことを考えてはいないよ」と発言するのではなかろうか。

ワシがそう思ったのは、ここ数年の自分の脳みそのことを考えたからである。ハッキリ言って数年前からワシの脳みそは発展していない。確かに経験は積んでいるが、これまでより思考が緻密になったとか書く内容が鋭くなったとはとても思えない。

もっとも、作曲家とワシのような凡夫と同列にすること自体おこがましいというのは重々承知である。ただ、作曲家だって基本的にフツーの人間なのだし、くだらないことだって考えるだろう。四六時中「音楽とはかくあるべし!」なんて考えているはずがない。そんなことをしていたら、きっと気が狂うだろう。もしワシだったら確実に発狂している。

作曲家について書かれた難解な文章を読んでいると、ついつい読み手の頭の中にはその作曲家が物凄い高みにいるように思えてくるものだ。そうなると、読み手の脳みその中ではいつの間にかその作曲家が「スゴイ人」に変貌し始める。確かに常人ではないスゴイ人なんだけど、なんていうのかな、そう、偶像化されてくるのだ。

本人と面識がなければ余計にスゴイ人に感じられてしまう。そういうふうになるのは書かれた文字情報でしかその作曲家を判断できないからだ。記述に書き手の主観が込められれば込められるほど、その対象はどんどん偶像化されてゆく。文字が一人歩きを始めるのはまさにこの瞬間といってよい。

だから熱狂的なマニアの記述にバイアスがかかるのは当然なのである。したがって読み手はある程度距離を置きながらその記述を読まなければならない。でないとマニアの描く偶像にまんまと「感染」してしまうからだ。そうした意味で歴史記述や伝記記述というのはより客観性をもって書かれる必要がある。

…などと、ふと思ってしまった。
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