文章で自分の真意を伝えるのは難しい。たとえ結論が同じであっても説明の順序によってそれを受け取る側の印象も変わる。例として次の2つのパターンで見てみよう。
(1)落とした後にフォローするパターン
「あること」に対し、これは●●の理由でよろしくないと指摘する。しかしそれがダメだと言いたいのではない。むしろ「あること」は◎◎の理由からもっと評価されるべきなのだと説く。
(2)評価してからアドヴァイスするパターン
「あること」は◎◎の理由から非常に評価されてしかるべきだろうとまずは言及する。ただし●●の点を考慮すると今後検討する余地はあるだろう。たとえば▲▲などを改善してみたらどうだろうかと説く。
どちらのパターンにしても筆者の立場は「あること」に対し肯定的な評価を下している。後者には「アドヴァイス」という付録があるが、それは実際にはあってもなくても構わない。なぜならここでは筆者が「あること」に対して肯定・否定どちらの評価をしているのかに焦点が当てられているのだから。
さて、上記の2つのパターンから読み手はどのような印象を受けるだろうか。受け取り方はさまざまだろうが、ワシの感覚からすると、同じように評価されるにしても(2)のパターンのほうが好意的に評価されているように感じられる。例文にあるように「▲▲など」と具体的な改善箇所が明記されてあれば読み手はより親切に思うのではないだろうか。
逆に(1)のほうは意地悪だなあという印象が強い。もしかすると書き手の本心は違うのではないかと勘ぐってしまう。「本当のところは評価しない。でも好意的な評価をしないとカドが立つからなぁ」なんて思ってるんじゃないの?と。そこでフォローの文章が続く…。たとえそのフォローが的を射たものであっても文章の最初で「落とされている」だけにあまり評価されている印象は残らない。そのフォローも何となくウソ臭く見えてしまったりする。
同じ表現するにしても面と向かって言うほうがはるかに的確に伝わる。表情や身振り手振りで誤解されないからだ。でも文字表現だけではどうしても情報に限界がある。その意味で文章というのは読み手にできるだけ誤解を与えない筋立てで論を進める必要があるのだ。もっとも、こんなことは当たり前のことなんだけどね。
(1)落とした後にフォローするパターン
「あること」に対し、これは●●の理由でよろしくないと指摘する。しかしそれがダメだと言いたいのではない。むしろ「あること」は◎◎の理由からもっと評価されるべきなのだと説く。
(2)評価してからアドヴァイスするパターン
「あること」は◎◎の理由から非常に評価されてしかるべきだろうとまずは言及する。ただし●●の点を考慮すると今後検討する余地はあるだろう。たとえば▲▲などを改善してみたらどうだろうかと説く。
どちらのパターンにしても筆者の立場は「あること」に対し肯定的な評価を下している。後者には「アドヴァイス」という付録があるが、それは実際にはあってもなくても構わない。なぜならここでは筆者が「あること」に対して肯定・否定どちらの評価をしているのかに焦点が当てられているのだから。
さて、上記の2つのパターンから読み手はどのような印象を受けるだろうか。受け取り方はさまざまだろうが、ワシの感覚からすると、同じように評価されるにしても(2)のパターンのほうが好意的に評価されているように感じられる。例文にあるように「▲▲など」と具体的な改善箇所が明記されてあれば読み手はより親切に思うのではないだろうか。
逆に(1)のほうは意地悪だなあという印象が強い。もしかすると書き手の本心は違うのではないかと勘ぐってしまう。「本当のところは評価しない。でも好意的な評価をしないとカドが立つからなぁ」なんて思ってるんじゃないの?と。そこでフォローの文章が続く…。たとえそのフォローが的を射たものであっても文章の最初で「落とされている」だけにあまり評価されている印象は残らない。そのフォローも何となくウソ臭く見えてしまったりする。
同じ表現するにしても面と向かって言うほうがはるかに的確に伝わる。表情や身振り手振りで誤解されないからだ。でも文字表現だけではどうしても情報に限界がある。その意味で文章というのは読み手にできるだけ誤解を与えない筋立てで論を進める必要があるのだ。もっとも、こんなことは当たり前のことなんだけどね。
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