どーも、ワシです。今回は奈良県宇陀市大宇陀宮奥(おおうだみやのおく)にある淀川水系の宮奥(みやおく)ダムを訪れます。ダム名と地名は同じ漢字ですが、読み方が微妙に違います。アクセスは国道370号沿いにある「宮奥ダム」の表示板に沿って行くと到着します。
まずはダム下から見た「ご尊顔」をご覧ください。あまり高さのあるダムではない感じ。
撮影場所はダム下の宇陀川に架かる「垣内橋(かいとはし)」から。
その近くには水利使用標識ならぬ「水利使用規則」。あらら、年月日などのところが、なんと手書き! いたずらして書き換えちゃおうか…ぬぁんてことはしちゃダメですよ。
垣内橋から見た宇陀川の下流側の様子。
再び国道370号に戻り、ダム横に向かいます。ダム横を過ぎたところに宮奥大橋という立派な橋があり、
ダム湖名は「宮奥湖」。
そこからダムは、こんな風に見えます。
なぜダム横を通り過ぎたのかというと、そこにはクルマを停める適当な駐車スペースがなかったから。宮奥大橋のたもとにはそれなりのスペースがあったんです。なのでダムの「後頭部」が撮れたのは、ある意味でラッキーでした。
さて、そこから改めて歩いてダム横に向かいます…といっても1分もかかりませんが。
ダム横にはピラミッドのような小さなオブジェ(パワースポットか!)。各面には当該ダムに関係のあるものが貼られています。
宮奥ダムのあらまし。農業用水と生活用水の確保を目的とした治水ダムで、1992年12月に着工、1997年3月に完成した奈良県の県営ダムだそうで。
「かぎろひ」は厳冬のよく晴れた夜明け前に現われる最初の陽光のこと。これで思い出されるのは柿本人麻呂が詠んだ短歌「東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡(ひむがしの のにはかぎろひ たつみえて かへりみすれば つきにしわたる)」(万葉集巻1-48)ですね。これは「東側の野に太陽の光がさすのが見えたので振り返って見ると月は西の方に傾いている」と言った意味。持統6年(692年)の冬、軽皇子(かるのみこ:683-707/後の文武天皇)が阿騎/安騎(あき)の野(古代、この付近はそう呼ばれた)に遊猟した際、同行した人麻呂が詠んだ歌です。でも本当は遊猟が目的ではなく、軽皇子の父である草壁皇子(くさかべのみこ:662-689)が生前人麻呂をはじめとする家臣を連れてこの地で遊猟したことがあったので、草壁を追懐するためにやってきたのでした。(参考)
上の人麻呂の短歌をもとに制作されたのが中山正實(実)による壁画『阿騎野の朝』。中山正実(なかやままさみ:1898-1979)は播州赤松家の流れを汲む家の出身で神戸に生まれました。独学で油絵を始め、印象派絵画を研究します。1919年、川端画学校で藤島武二に師事した後、1924年に渡欧し各地を巡歴。1927年に帰国後は帝展に何度も受賞。『阿騎野の朝』は1939年に大和国史館(現在の奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)万葉室壁画として制作されたものだそうです。中山はカラー銅版画の草分けとして知られています。(参考)
もうひとつの面にも何か貼ってあった気がするのですが、撮り忘れました。てへ。
オブジェのあるところからダムを見ると、こんな感じ。
そのオブジェの前ににあるのが「宮奥ダム管理所」の建物。
管理所からダムはこんな風に見えます。
これがダム上です。歩いてみましょう。
通路の車止めのところには奈良県の鳥である「こまどり」の画像が。
ダム上、中央から見た宮奥湖の様子。
一方、ダム下は、こんな感じ。
そして下流側の遠景。写真の下に見える橋が先ほどの垣内橋です。
対岸(右岸)には近畿自然歩道の案内板。ダムの場所はこの地図からわかると思います。ただし、地図の表示は南北が逆なので注意。
対岸から振り返ると、こんな感じ。
こちら側の車止めには大宇陀町の鳥である「ほおじろ」の画像が貼られています。ただし、現在大宇陀町(おおうだちょう)はありません。大宇陀町は1942年から2005年までの名称で、2006年1月1日より菟田野町(うたのちょう)、榛原町(はいばらちょう)、室生村(むろうむら)と合併して宇陀市になっています。ちなみに宇陀市の鳥は「うぐいす」。
右岸、宮奥湖側から見たダムの様子。
同、下流側からダムを見ると、こんな感じ。
宮奥ダムはそれ自体は地味な印象ですが、「かぎろひ」をはじめとして古代のロマンについてのイマジネーションを掻き立てられる良き場所のように思えました。良いねぇ、こういう演出!
まずはダム下から見た「ご尊顔」をご覧ください。あまり高さのあるダムではない感じ。
撮影場所はダム下の宇陀川に架かる「垣内橋(かいとはし)」から。
その近くには水利使用標識ならぬ「水利使用規則」。あらら、年月日などのところが、なんと手書き! いたずらして書き換えちゃおうか…ぬぁんてことはしちゃダメですよ。
垣内橋から見た宇陀川の下流側の様子。
再び国道370号に戻り、ダム横に向かいます。ダム横を過ぎたところに宮奥大橋という立派な橋があり、
ダム湖名は「宮奥湖」。
そこからダムは、こんな風に見えます。
なぜダム横を通り過ぎたのかというと、そこにはクルマを停める適当な駐車スペースがなかったから。宮奥大橋のたもとにはそれなりのスペースがあったんです。なのでダムの「後頭部」が撮れたのは、ある意味でラッキーでした。
さて、そこから改めて歩いてダム横に向かいます…といっても1分もかかりませんが。
ダム横にはピラミッドのような小さなオブジェ(パワースポットか!)。各面には当該ダムに関係のあるものが貼られています。
宮奥ダムのあらまし。農業用水と生活用水の確保を目的とした治水ダムで、1992年12月に着工、1997年3月に完成した奈良県の県営ダムだそうで。
「かぎろひ」は厳冬のよく晴れた夜明け前に現われる最初の陽光のこと。これで思い出されるのは柿本人麻呂が詠んだ短歌「東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡(ひむがしの のにはかぎろひ たつみえて かへりみすれば つきにしわたる)」(万葉集巻1-48)ですね。これは「東側の野に太陽の光がさすのが見えたので振り返って見ると月は西の方に傾いている」と言った意味。持統6年(692年)の冬、軽皇子(かるのみこ:683-707/後の文武天皇)が阿騎/安騎(あき)の野(古代、この付近はそう呼ばれた)に遊猟した際、同行した人麻呂が詠んだ歌です。でも本当は遊猟が目的ではなく、軽皇子の父である草壁皇子(くさかべのみこ:662-689)が生前人麻呂をはじめとする家臣を連れてこの地で遊猟したことがあったので、草壁を追懐するためにやってきたのでした。(参考)
上の人麻呂の短歌をもとに制作されたのが中山正實(実)による壁画『阿騎野の朝』。中山正実(なかやままさみ:1898-1979)は播州赤松家の流れを汲む家の出身で神戸に生まれました。独学で油絵を始め、印象派絵画を研究します。1919年、川端画学校で藤島武二に師事した後、1924年に渡欧し各地を巡歴。1927年に帰国後は帝展に何度も受賞。『阿騎野の朝』は1939年に大和国史館(現在の奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)万葉室壁画として制作されたものだそうです。中山はカラー銅版画の草分けとして知られています。(参考)
もうひとつの面にも何か貼ってあった気がするのですが、撮り忘れました。てへ。
オブジェのあるところからダムを見ると、こんな感じ。
そのオブジェの前ににあるのが「宮奥ダム管理所」の建物。
管理所からダムはこんな風に見えます。
これがダム上です。歩いてみましょう。
通路の車止めのところには奈良県の鳥である「こまどり」の画像が。
ダム上、中央から見た宮奥湖の様子。
一方、ダム下は、こんな感じ。
そして下流側の遠景。写真の下に見える橋が先ほどの垣内橋です。
対岸(右岸)には近畿自然歩道の案内板。ダムの場所はこの地図からわかると思います。ただし、地図の表示は南北が逆なので注意。
対岸から振り返ると、こんな感じ。
こちら側の車止めには大宇陀町の鳥である「ほおじろ」の画像が貼られています。ただし、現在大宇陀町(おおうだちょう)はありません。大宇陀町は1942年から2005年までの名称で、2006年1月1日より菟田野町(うたのちょう)、榛原町(はいばらちょう)、室生村(むろうむら)と合併して宇陀市になっています。ちなみに宇陀市の鳥は「うぐいす」。
右岸、宮奥湖側から見たダムの様子。
同、下流側からダムを見ると、こんな感じ。
宮奥ダムはそれ自体は地味な印象ですが、「かぎろひ」をはじめとして古代のロマンについてのイマジネーションを掻き立てられる良き場所のように思えました。良いねぇ、こういう演出!