端歩の攻防の遠因は

2023-04-15 00:00:45 | しょうぎ
名人戦七番勝負が始まった。過去の対戦成績が大きく離れているように見えるが、8割以上の勝率の竜王に対して現名人が20局近く指して3勝とか4勝というのも平均的数字とも言える。

先手の名人が序盤早々に6六歩と角道を止めた手に対し、9筋の端歩の交換を入れたのが、後手の竜王の大きな戦果だったような気がする。角道がふさいであるので先手の速攻なしとなり後手から端歩を突けたということだろうか。後手は自分が居玉なので端歩の交換は攻撃の意味しかないわけで、その端に先手玉が近づいたところで戦いが始まった。皮肉なもので吊り上げられて取られる寸前だった先手の左香は生き残ったわけだ。

なんとなく途中から先手の戦意喪失を感じたのは7番勝負全体をみた作戦なのだろうか。野球でも申告敬遠というルールができたわけで、気力がなくなったのなら、新名人の若年記録をさらに偉大にできるわけだが。


4月1日出題作の解答。








双玉にしたのは、玉の代わりに金だったら、最終手に余詰めが発生するから。

今週の問題。



最近では最も簡単かもしれない。

解ったと思われた方はコメント欄に最終手と総手数とご意見をいただければ正誤判定します。

佐原は小大坂ではないかな

2023-04-14 00:00:11 | あじ
佐原は小江戸(こえど)と自称している。小江戸といえば川越の別称でもあり、

 世に小京都はあるものの 小江戸は川越ばかりなり

とも言われている。確かに小京都と言われる町は多い。町の一部が似ていることが多い。



ガイドブックにも載っている『香蕎庵』という麵屋で、「まぜそば」を混ぜながら、佐原は大坂に似ていると思い始めた。水の都だし、商業都市だし、食べ物は独創的だ。また市民は独立心が強い。

ところが、小大坂という単語はないようだ。作ってしまおう。



まぜそばは豪華絢爛だが、食べるまでには混ぜなければならない。

伊能忠敬旧宅

2023-04-13 00:00:31 | 美術館・博物館・工芸品
佐原出身の偉人といえば伊能忠敬をおいてはいないだろう。ちょうど江戸幕府の後期、欧米列強が清国や、日本に目を向けはじめていた時代だ。

日本は国防の前に、きちんとした地図さえなかった。手書きの絵巻のようなものとかオランダ人が書いた絵地図を参考にする始末だった。

そこに忽然のように伊能忠敬があらわれた。

そもそも、彼は何者なのか。

造り酒屋の養子だった。



特筆すべきは佐原のあたりの家督制度。江戸時代だから男子長子が家を継ぐのが決まりのように思えるが、これは明治政府(つまり西国封建制度)のルール。東国、しかも独立心の高い佐原では、男女を問わず長子優先制度だった。おそらく西国に比べ東国は気候もよくないし、家を継ぐこどもの命も軽かったのかもしれない。とにかく伊能家の長子は女子だったので養子を探すことになり、14歳で結婚したが、最初の夫が早世してしまう。そして英才として誉れの高かった忠敬少年が17歳で4歳年上の妻と結婚。現代でいえば、妻の初婚も忠敬の結婚も犯罪だ。

その後、独学で測量法を習得し、幕府天文方の高橋至時に師事することになり、蘭学はじめとする地図作成方法を完全にマスターすることになる。



特筆すべきは、彼は頭角を現すまで、独学で勉学を進めていたということ。佐原は舟運の宿場町で、そのため酒造所が数十もあったそうで、現在価値でいえば億円単位の利益を上げていたらしい。高等教育には高額学費が必要というのは現代的な問題でもあるが、それが現実なのだろう。親ガチャ。むしろ優秀な男子少年を婿に囲い込んだ金持の存在が大きかったのだろう。

「資産10億円以上の家庭の娘は、IQ70以上の少年を年齢にかかわらず婿にすることができる」といった法令があればいいわけだ。



その酒造家の旧宅が残されている。残っているのは店舗と住宅と倉庫で中庭があるが、これでは大酒造家の住まい兼作業所には見えないので、この広場に建物があって製造/販売の回転の速い「あらばしり」などを作っていたのではないかと想像する。当時の農業事情はわからないが、佐原は早場米が有名で、新米が7月にはとれる。佐原の夏祭りは収穫によって規模がかわるとされた。

逆にいえば新米仕込みのあらばしりを初物好みの江戸市民に売り込むために、江戸時代から早場米を収穫していたというのは私の想像だが珍説の類かもしれない。

もういちど(畠中恵著)

2023-04-12 00:00:21 | 書評
しゃばけシリーズの第20巻目。毎年1冊発刊で、今年は22巻目が出るのだろう。源氏物語54帖(一説には60帖)にはまだ遠く届かない。



主人公の一太郎は病弱ではあるが大店の後継ぎ。母方には妖怪の祖を持ち、人類には見えざる存在の妖怪たちと交流することができる。江戸時代が舞台で、その頃は妖怪の力は絶大だった。ITがなかったからだ。

一太郎の周りを取り巻く妖(あやかし)たちの活躍によって事件が解決するという時代劇+ファンタジー+ミステリーという構造になっている。

今回のテーマは、気候変動。そして、一太郎の再生。ある年、日本全国が日照りに襲われる。水がなくなり、作物が育たない。長雨だと不作になるが日照りでは何一つ育たない。そのため多くの社会不安が起こる。

そして、一太郎は暑さで体力をさらに奪われないように避暑地に向かうのだが、その途中の船旅で大嵐に巻き込まれ意識不明状態になる。

そして九死に一生を得た後で目覚めると、20年ほど前の姿、つまり赤子になっていた。困り果てたのは取り巻きたち。後継ぎの青年がいなくなり、幼児があらわれたら、普通は犯罪発生だ。

その後、避暑地に隔離中に異常な速さで成長し、失われた時間の辻褄が合うのだが、そこで連想したのが、古代天皇の年齢。

神武天皇はじめ何代かの年齢はギネスの長生き記録を大きく更新する140歳も含め100歳以上がずらっと並ぶ。それをどう考えるかという「解いてはいけない謎」があるのだが、一つ合理的な説があるそうだ。それは、古代の天皇の時代は、天皇は1年に2歳年をとっていたということ。

ただ、この説は「『1年に2歳年をとる』という文献がある」ということではなく、「そう考えれば合理的だ」という仮説ということになっているわけだ。

佐原の祭り、山車会館

2023-04-11 00:00:00 | たび
佐原は水運の町であると同時に祭りの町でもある。それも大祭が二つ。

まず、町が本宿と新宿と二つの地区に分かれている。それも江戸時代の最初の頃からのようだ。本宿には八坂神社があり、夏(7月中旬)に祇園祭りを行う。新宿の方は諏訪神社があり秋(10月中旬)に秋祭りがある。

江戸時代初期には神輿を担いでいたが中期になり山車(だし)を引くようになる。年々豪華になっていった。

江戸の方では享保の改革とか倹約気風が漂っていたが、佐原は幕府の意向を受けた地頭(旗本)が祭りを禁止しても、町民が無視していたと言われる。(想像だが、利根川の南側には銚子から関宿まで、ずらっと親分一家たちが並んで抗争を続けていて、とても旗本分際では手に負えなかったはずだ)



現在は、祭りで使われる山車が二基、山車会館に収納されている。二基の山車がちょうど収まる建物だが、歴史があるのは山車の方なので、山車の大きさに合わせて建物が建てられたに違いない。

見るべき日本の祭りなのだろう。

小江戸さわら舟めぐり

2023-04-10 00:00:39 | たび
佐原は、今は香取市の一部になったが、千葉県の歴史の中では長い間、銚子についで千葉県で二番目の市だったそうだ。

古くは江戸時代には利根川に面した水上交通の中継地だった。日本の舟は江戸幕府の方針で外国まで行けないように小さくて底の浅い構造だったので陸地から離れられない。そのため北日本から大消費地の江戸との貨物の輸送には銚子から房総半島を回らず利根川に入り、江戸川との分岐点の関宿(せきやど)から東京湾に向かっていた。

現在でも房総半島の最南端の野島崎は船員にとって緊張する地点になる。野島崎から西に向かう角度は鈍角だが、北上する場合の角度は鋭角になる。しかも船は大きく曲がるのが苦手だ。荷崩れだけならともかく横転したら終わりだ。そのため利根川水路が好まれたわけだ。

そういう事情で川越と同じように「小江戸」と呼ばれてきた。現在では川越は各種電車で数十分という近さから「思い立ったらすぐ行ける」場所だが、佐原はなかなか近くない。船で行くわけにはいかない。鉄道も不便だ。



ということで、特に雨であったこともあり閑散としていたが、韓国からの団体旅行客が結構いたのだが、あまりにうるさいので、時間をずらして佐原の水路を平底の舟で巡ることにする。伊能忠敬の旧宅の前から船に乗る。雨の時には屋根付きになるのだが、浅い川の上には橋がかかっていて大小高さの違う橋をくぐるため屋根の高さが変えられるようになっている。



観光船といえば、毎年のように事故があり、保津川下りの転覆事故の時には船頭二人が亡くなり、乗客も救命胴衣の使い方で戸惑ったようだ。

佐原の場合、そもそも深くないとか流れが緩いとか幅が狭いといわれるが、川底の位置はわからないし、底が浅くても泥沼状だと浮き上がれない可能性もあるのだが、舟に積まれた救命胴衣は、固形式、つまり発泡スチロールの板にカバーがついているものだった。普通はこれのはず。最も安全だ。最初に着用するわけだ。仮に落水すると、胸の位置が浮き上がるようになり自然に気道確保される。

欠点は、動きにくいことと、保管場所を取るため、舟に乗れる人数が減る可能性がある。

救命胴衣には、この他に膨張式というのがあって水に浸かると自動的に圧縮された二酸化炭素が救命胴衣の中に噴き出して拡がる方式があるが、水を感知する仕組みがデリケートであることと、岩場だと、救命胴衣が岩に擦れて破れることがある。さらに救助までの時間が長いと空気漏れしていく。

保津川の場合、さらに自分で紐をひく方式だったので、最も危ない。落ちた時の衝撃で気を失うこともあるし、落ちた瞬間には水面下に沈むので紐が引けるかどうかだし、水を飲んでしまう。



話を舟めぐりに戻すと、実は眺めはそう良くはない。視野が狭いわけだ。低いところから高いところを見るということ。景色を楽しむには上から目線の方がいい。舟めぐりをしている人を川岸から眺める図がいいのだろう。

案内をしている人から聞いたのだが、次の日には「嫁入り舟」の仕事があるそうだ。そういえば倉敷でもやっていた。新夫妻が船に乗って、被写体になるわけだ。

葬儀舟もあるのかと聞きたくなったが、ぐっと我慢する。突き落とされても代わりの衣類は用意していないし。

航空科学博物館は面白いが、

2023-04-09 00:00:46 | 美術館・博物館・工芸品
成田空港の南端のさらに南側に航空科学博物館がある。空港とは別の組織なので、空港の中から行けない。



建物の内と外に展示がある。博物館の名称に科学という言葉が入っているが、科学的なことはほとんどない。おもにジャンボ機に関する展示とかフライトシミュレーターでの模擬操縦とか。機長やCAの制服レンタルでの撮影とかもありそうで、ない。


しかし、ジャンボ(B747)のエンジンとかコックピットとか断面図とか見ると、偉大な旅客機だったことがしのばれる。



屋外展示では、国産機を中心に展示されている。史上唯一の国産旅客機であるYS―11がそのものが展示されている。



東京~仙台という出張で乗ったことがある。当時でもすでに期待が老朽化していて、たまたま座った窓側の席は、普通の窓ではなく緊急脱出口のドアになっていたのだが、フライト中にガタガタと動くわけだ。飛行中にドアが開いたら大変なので、必死に抑えていた。



それと三菱重工の旅客ジェット機の開発破綻について、報道では、YS-11をいつまでも超えられない、というような意見が多かったが、実は三菱重工はYS機を作ったわけではなく、もっと小さな機種(7人乗りのMU-2)を作っていた。

千葉出身の棋士(2/2)

2023-04-08 00:00:03 | しょうぎ
千葉出身の棋士といえば、昭和の時代は佐瀬勇次氏と長谷部久雄氏。佐瀬門下には多くのプロが輩出しているが、東京に出てから育成を本格化していて、千葉のイメージはない。育成と言えば現在では京成津田沼駅直結の将棋センターで弟子を増殖中の所司七段と柏駅至近の将棋センターで増殖中の石田九段が有名。都内を避け、といっても首都圏といった微妙なバランスの中で活躍中だと思う。

それと、そこを千葉といってはいけないということかもしれないが、幕末から明治初期に棋界を守っていた11世名人の伊藤宗印(八代)が選んだ道場があるのが両国。回向院から東に数百メートルの場所だ。実は江戸時代初期の江戸と下総の国境は隅田川で、両国橋から東は下総(千葉)だった。宗印の道場は、昔は千葉だった。人口増大で東に拡張(つまり千葉は縮小)されたわけだ。現代でいえばTDLのある浦安市が東京都になるようなものだ。すでに町田市は神奈川県の中で東京都になっている。


さて、3月25日出題作の解答。








今週の問題は、先週の「チ」に続き「バ」。濁点付問題はつくるのが難しい。離れた位置なので大駒になりやすいし、そうすると余詰めが発生する。余詰防止駒を置くと、文字が崩れる。



解ったと思われた方はコメント欄に最終手と総手数とご意見をいただければ正誤判定します。

同じソースかつ丼でも

2023-04-07 00:00:24 | あじ
佐倉市の歴史民俗博物館は市街地から少し外れた佐倉城址にあるので、食事するには、付属のレストランに行くのが便利だ。

便利の対価は割高というのが普通だが、さすがに国立博物館なので醜悪な価格ではない。もっとも博物館は観光地ではないので、再来者に期待することが多い。観光地でも再来客は重要だが、実際には観光客価格があることが多い。善良な客は、二度と行くものかと思っても、口にはしない。次の犠牲者がいないと立つ瀬がない。



それで、このメニューだが単なるソースかつではなく、ベースに敷かれたコメが違う。色がついているが赤飯ではない。赤米だ。古代には白米がなかった。もっともコシヒカリのようなブランド米が一般化したのは昭和50年頃。赤米だからってすごく味が違うわけではない。

キャベツの切り方やトンカツの揚げ方が工場製品でないのが良い。

ただ、主旨は違うのだが、「民俗」を掲げるなら、味噌ソースカツにしてほしかった。

雨の鹿島神宮

2023-04-06 00:00:36 | たび
東国三社参りの最後は真打といえる鹿島神宮。

その由緒は神話の中につながっているわけで大和朝廷よりも古いのかもしれない。広大な敷地のあちこちが神話的ストーリーと関係があるようだ。

三社参りというのは鹿島神宮、息栖神社、香取神宮のことで正確に言うと平たい二等辺三角形の位置だが、時間的には北から南に並んでいるので、三社回るとなると中央の息栖神社の前に鹿島に行くか香取に行くかということ。

「鹿島立ち」という言葉があり、鹿島神宮から旅行を始めるということらしいが、歴史の中では大和政権が東北以北の少数民族と戦うための基地だったようで、鹿島を出て向かう先は北方だったそうで、それでは三社を巡れない。



ということで、香取→息栖→鹿島ということになり、到着時は既に暗くなりつつある時間だった(寄り道しているからだが)。



そしていわゆる小糠雨で地面も緩んでいて、本殿より奥に入るのは遠慮することになる。



そして、本殿であるが、工事中ということで、白い布に包まれていたわけだ。森を見ず帰るということになった。

息栖神社のとある木

2023-04-05 00:00:43 | たび
東国三社の一つである息栖(いきす)神社。香取神宮のところで書いたが、香取神宮は日本書紀では鹿島神宮より上とされ古事記では鹿島神宮が上とされる。息栖神社は古事記派で鹿島神宮の子分のように書かれているようだ。



この神宮も正式には利根川に面した船着き場の前に鳥居があって舟運にとって重要な神社だったと考えられる。古代にはこのあたりは湖だったようだ。



ただ、なんとなく神社周辺が整備され2年後をめどに区画整備が行われていて、観光用神社になるのかもしれない。今でも東国三社めぐりの観光バス用の駐車場がある。



そして境内にある一本の木に説明が書かれている。

招霊(オガタマ)の木と書かれている。幸運をもたらす木の代表で精霊が宿る木だそうだ。パワーツリー。「折り取らないでください」と書かれている。シンガポールの蘭園と同じだがそちらは「折ったら罰金何ドル」というような書き方だった。

さらに、この木は一円玉の表に描かれている木と同じとされている。

しかし、後で調べると、公式的には1円玉のデザインは「若木」とされ架空の木とされている。5円は稲穂、10円は常盤木、50円は菊、100円は桜、500円は桐と具体的だが1円だけ「若木」というのは、何か事情がありそうだ。どうも神道に近すぎるというので若木と仮面をつけたのではないだろうか。

この木は大きな実を付けるそうで、それで神社の鈴が作られるそうだ。なお全国の苗字1,2位を争う「鈴木」というのは、この木のことだそうだ。

香取神社へ

2023-04-04 00:00:30 | たび
東千葉のたびも予定の3日のうち先の2日が雨ということで、予定変更することに。雨でもなんとかという先として神社めぐりにする。前々から知っていたもののということで『東国三社参り』することにする。三社というのは東から言うと鹿島神宮、息栖神社、香取神宮ということになる。この中で鹿島神宮と香取神宮は巨大神社であるのに対し、息栖神社というのは市街地であれば大き目の神社であるが、二社とはけた違いに小さい。

さらに、鹿島神宮と香取神宮は古事記と日本書紀ではまったく扱いが異なり古事記では鹿島が主で香取が従、日本書紀ではその逆となっている。異なる理由はわからないし、どちらも十分古いということがわかる。そもそも神話的な世界というのは2~3世紀のことと思われるが、その頃の人々の祈りの形態もよくわからない。「何かに祈る」ということはあっただろうがそもそも日本は平和ではなかったのだろう。



さて、香取神宮だがおぼろげの記憶では小学校か中学校の頃の修学旅行の時以来と思う。僅か10年前であればいいがその何倍も前でほぼ記憶がない。そもそも当時は乗り物酔いが激しく観光バスが苦手だった。道も多くは砂利道だっただろう。



本来の参道は利根川に面していて鳥居を船でくぐっていたそうだ。現在も川岸に鳥居はあるが現在の駐車場からの参道を通ることにする。これだけの立派な森があると、ちっぽけな心の人間は圧倒される。空気が綺麗だが、マスクをしていない人はいないので、残念だ。特に、若い人がマスクをはずさないと年寄は遠慮しないといけない。



特に本殿がよろしい。風格がある。



要石は本殿から近い場所にあり、地上に見えるのは漬物石のような大きさ。石の本体は深いところにあるとすると氷山の一角のような形状なのだろうか。

そして、全国に400もの香取神社があるそうで、その中心地だ。全国香取神社会議とか毎年あるのだろうか。席の序列とか大変そうだ。

走れ!ムラカミ

2023-04-03 00:00:05 | スポーツ
千葉県東部の話を書き続けているが、小休止。神宮球場のこと。

ヤクルトスワローズのホーム。外野応援席にいた。対戦相手は広島カープ。なぜか神宮に行くときに限って広島と対戦することが多い。今回も広島(ビジター)側の席の方が先に売り切れていた。その熱意は、まったく不明。

今年から声出し応援が解禁になったが、実際には多くの人がマスクをしている。何人かの選手には個人別応援歌があって、一緒に歌うことになるが、実は1月にコロナ感染した後、音階に変調をきたしている(つまり、音痴)ので歌はNG。後遺症の中では最も罪が軽いだろう。

一般的応援はカンフーバットといって30センチぐらいの樹脂製の二本のミニバットをポコポコと打ち鳴らす。そして30センチぐらいのミニ傘。ホームランの時と7回裏とゲームセットの時、東京音頭と一緒に振り回す。



そして問題のプレーが起きた。8回裏にスワローズ4番の村上選手が放った当たりが右中間に飛んでいき、多くの人がホームランと思い、本人も一塁に歩き始めた。ところが打球の先に近い席だったので、外野手が走ってきたのでホームランじゃないような感じになった。そしてちょうどクッションボールを取ろうとした広島の選手が転んだらしい(フェンスの直前は死角なので見えないが。)。そして歩いていた村上選手が急に走り出した。見かけより足が速い。スタートで出遅れた競走馬のような感じだ。

外野から観ているとランニングホームランのように見えたので、応援団はミニ傘を持って椅子から立ち上がり勝手に東京音頭を歌いだすのだが、どうも様子が変。やはりホームラン認定ではなかった。


ところで、神宮球場といえば文豪にも人気が高い。

まず、村上龍の「走れ!タカハシ」。広島の高橋良彦選手に関係のある11編の短編集。登場人物の多くが高橋選手を観るために神宮球場に行く。(やはりヤクルト×広島だ)。

次に、村上春樹が初めて書いた長編小説『風の歌を聴け』は1978年だった。その年の4月1日の開幕戦を彼は神宮球場で観戦。試合中に芝生の外野席に寝転んでいて、作家になる天啓を受け、その日のうちに万年筆と原稿用紙を買った。調べてみると、これもヤクルト×広島だった。

ところで、ヤクルト本社の株主優待券が1枚の外野席になるのだが、ちょっとケチな感じがある。以前、都内某所の研究所を見学した時に、世界中から乳酸菌を集めていて研究・保管していると言われていた。にもかわらず、ヤクルト飲料には創業者の代田稔博士が発見したシロタ株が依然として使われていて、ヤクルト1000にしてもシロタ株の量が多いということ。

研究所での話を聞き間違えた可能性はあるが、確か代田博士は自分の大腸から乳酸菌を抽出したはず。村上選手の腸内からもサンプルもらったらどうだろう。

国立歴史民俗博物館へ

2023-04-02 00:00:12 | 美術館・博物館・工芸品
佐倉城の敷地内になぜ国立歴史民俗博物館が建てられたのか、色々な説明をみてもよくわからない。成田空港がなぜ今の場所になったかも諸説あるが合理的に考えてもよくわからない。千葉は不思議なことが多い県だが、旅行中の雨のおかげで佐倉城址の花見客がゼロになり、交通渋滞もなく国立歴史民俗博物館に辿り着いた。略称は「歴博」となっている。



同じような名前の国立民族学博物館というのは大阪の万博記念公園の中にある。こちらは「民博」と略される。高校の大先輩がかつて館長だったこともあり見学したことがある。どちらかというと「モノ」に拘りを持つ博物館だった。

佐倉の「歴博」だが、かなり広いのだが、印象は「縄文時代」に非常に詳しい。逆説的だが歴史博物館と「歴史」の文字が入っているが、縄文時代の記録は紙の上には存在しない。発掘されたわずかな遺跡や集落跡などから多くの学者が苦労して当時の生活を研究している。



自分のこどもの頃に教えられた歴史観では縄文時代は文明ではなく、採取文化として海岸でアサリを広い、イノシシやシカを捕まえて食べていたというように考えられ、すべての文化は朝鮮半島から米作を持ってきた新人類が持ってきたもので、西から東へどんどん縄文時代人を殺戮していたとされていた。インディアンを追い出した白人のイメージだ。



その後、様々な科学的研究の結果、現代日本人のDNAの60%が縄文系で40%が弥生系ということがあきらかになったり、三内丸山遺跡をはじめとする縄文遺跡の発掘により、まったく異なる歴史が描かれるようになった。それと同時に、文明の転換点には気候変動が最大の影響を与えていたことが明らかになってきた。

それで、縄文時代の祭礼や食生活、地域差などが数々展示されている。当時の食材を見てびっくりする。日本最高峰の高級料亭(行ったことはないが)の食材が並ぶ。



貝でいえばホタテ、サザエ、アワビ。ウニもみえる。魚介でいえば、鯛、サケ、ニシン、それとフグが並ぶ。肉は鹿とかイノシシ。穀物はトチの実を食べていたようだ。でんぷんの含有量が多いが調理法が複雑でアク抜きのために高度な加工法が用いられていた。

しかし、フグには毒がある。どの部位に毒があるかを調べる方法は、実験ということになる。人体実験だろうか、あるいは動物実験だったのだろうか。

千葉出身の棋士(1/2)

2023-04-01 00:00:38 | しょうぎ
千葉市出身で20年ほど住んでいたのだが、東京方面に視線を向けていたので残念ながら千葉県の北部にも東部にも南部にもほとんど行ったことがなかった。おととしの暮れに南房総の旅行に行ったのだが、今回は佐倉から成田、佐原、銚子方面といった東総旅行。

毎週土曜は将棋関係の記事を書いているので、千葉県出身の将棋棋士のことを書いてみたい。

何しろ、千葉県には将棋界の中興の祖と言える人物がいた。

第13世名人である関根金次郎だ。まず将棋界の組織が統一されていなかった。朝日、毎日という二大新聞は対立していたし、12世名人の小野五平は90歳を過ぎるまで健在だったので、本来は代替わりすべき年齢でも終身名人だった。

阪田三吉、土居市太郎、そして関根金次郎といった強豪も四十歳を過ぎてしまい、どうもうまくいかない状態だった。実際、阪田三吉と関根金次郎は年齢はそう変わらないが、阪田の方が先に気力の陰りをみせていたわけだ。

それでも実力名人制は関根、木村、大山と永世名人がつないでいった。

関根金次郎の出身地は関宿(現在は野田市の一部)。ちょうど利根川が江戸方面の江戸川と銚子方面の利根川に分かれる場所で、江戸時代は東北北海道からの貨物が銚子から利根川を川船で上り、関宿で江戸方面の舟に積み替えられていた。

関根金次郎記念館というのがあるので、いつか行ってみたいと思いながら年齢を重ねている。棋士の博物館では、堺市で阪田三吉、倉敷市で大山康晴の記念館に行っている。その他の棋士のための博物館はあるのだろうか。新将棋連盟には羽生ルームとかできないのかな。


さて、3月18日出題作の解答。








今週の問題だが、千葉に由来して、初形が「チ」。



来週は「バ」だが、ずいぶん苦労した。

解ったと思われた方はコメント欄に最終手と総手数とご意見をいただければ正誤判定します。