伊能忠敬旧宅

2023-04-13 00:00:31 | 美術館・博物館・工芸品
佐原出身の偉人といえば伊能忠敬をおいてはいないだろう。ちょうど江戸幕府の後期、欧米列強が清国や、日本に目を向けはじめていた時代だ。

日本は国防の前に、きちんとした地図さえなかった。手書きの絵巻のようなものとかオランダ人が書いた絵地図を参考にする始末だった。

そこに忽然のように伊能忠敬があらわれた。

そもそも、彼は何者なのか。

造り酒屋の養子だった。



特筆すべきは佐原のあたりの家督制度。江戸時代だから男子長子が家を継ぐのが決まりのように思えるが、これは明治政府(つまり西国封建制度)のルール。東国、しかも独立心の高い佐原では、男女を問わず長子優先制度だった。おそらく西国に比べ東国は気候もよくないし、家を継ぐこどもの命も軽かったのかもしれない。とにかく伊能家の長子は女子だったので養子を探すことになり、14歳で結婚したが、最初の夫が早世してしまう。そして英才として誉れの高かった忠敬少年が17歳で4歳年上の妻と結婚。現代でいえば、妻の初婚も忠敬の結婚も犯罪だ。

その後、独学で測量法を習得し、幕府天文方の高橋至時に師事することになり、蘭学はじめとする地図作成方法を完全にマスターすることになる。



特筆すべきは、彼は頭角を現すまで、独学で勉学を進めていたということ。佐原は舟運の宿場町で、そのため酒造所が数十もあったそうで、現在価値でいえば億円単位の利益を上げていたらしい。高等教育には高額学費が必要というのは現代的な問題でもあるが、それが現実なのだろう。親ガチャ。むしろ優秀な男子少年を婿に囲い込んだ金持の存在が大きかったのだろう。

「資産10億円以上の家庭の娘は、IQ70以上の少年を年齢にかかわらず婿にすることができる」といった法令があればいいわけだ。



その酒造家の旧宅が残されている。残っているのは店舗と住宅と倉庫で中庭があるが、これでは大酒造家の住まい兼作業所には見えないので、この広場に建物があって製造/販売の回転の速い「あらばしり」などを作っていたのではないかと想像する。当時の農業事情はわからないが、佐原は早場米が有名で、新米が7月にはとれる。佐原の夏祭りは収穫によって規模がかわるとされた。

逆にいえば新米仕込みのあらばしりを初物好みの江戸市民に売り込むために、江戸時代から早場米を収穫していたというのは私の想像だが珍説の類かもしれない。