忠臣蔵(松島栄一著)

2017-02-16 00:00:00 | 書評
2月になって忠臣蔵の本を読むという間抜けな話。12月14日の赤穂浪士による吉良邸への討入りに合わせて読んでいたのだが、本書(岩波新書)が非常に細かく事件やその後の浄瑠璃や歌舞伎の成立について分析されていて、なかなか読み進むことが困難だったこともあり、大幅に読了が遅れた。

chushinkura


著者の松島栄一氏は1917年(つまり生誕100年)に生まれ、早稲田大学を卒業。当時津田左右吉に傾倒。その後、東京大学史料編纂室に就職という変わったコースをたどり、終戦後は羽仁五郎、家永三郎に影響されマルクス主義的歴史観を持つようになる。江戸時代が専門だが、一方、江戸時代をマルクス主義的に理解するのは難しいだろう。明治維新は市民革命ではなかったのだが、いつの間に封建制度が崩れた。本書の初版は1964年。さすがにマルクス主義とは関係ない一冊だ。

まず、忠臣蔵の確立を歴史的言うと、3つのできごとに分類できる。

1.第一の事件 浅野内匠頭の殿中での切り付け(失敗)。原因と結果。
2.第二の事件 大石内蔵助を中心として吉良上野介の襲撃(成功)。準備と結果。
3.浄瑠璃、歌舞伎化により最終的には仮名手本忠臣蔵の成立。ストーリー確立まで。

本来は歴史なのだから、1→2→3と順に追えばいいのだが、まず1の事件の事件発生前の事情がよくわからない。喧嘩両成敗とはいうが、そもそも片側が何らかの勘違いで喧嘩を始めたのかもしれないし、それを両成敗するわけにもいかない。

そして1の事件がスピード解決されたため、正確な事件の背後要因が巷間に伝わらなかった。赤穂藩士にも同様に状況がわかっていなかった。そのため、噂に尾鰭がついて処罰を決めた綱吉ですら「即日切腹」という処理が正しかったのかどうか自信がなくなっていた。

そして第二の事件は、江戸時代中期以降より学者により調べられて、ほとんど明らかになっている。討入側には二派あって、最初から仇討ちを主張したグループと、とりあえず殿の弟が家を再建できる許しが出るのではないかとの期待を持ちながら、ダメなら仇討ちという両面作戦派である。そして弟(浅野大学)は本家の浅野家に預かりとなりお家再興は認められなかった(皮肉なことに、討入の後、旗本扱いとして家は残ることになった)。

一方、すべての関係者が他界してから『劇場版忠臣蔵』が完成したが、かなりの部分は事実とは異なるようだ。

つまり、第一事件について深く調べることなく当事者が切腹や暗殺ということで、動機や事実関係がわからなくなった(ケネディ大統領暗殺事件のように)。そのため、色々な解釈が発生し、第二の事件が起きたり様々な演劇が京都を含む様々な場所で発生した。事件現場から一人別行動をとり本家の広島の浅野家に報告に行き、切腹を免れた寺坂某の死去によって関係者すべてが他界したのち、忠臣蔵はイメージの世界のできごとになっていく、ということのようだ。その後の江戸時代後期の研究で、少しずつ真実に近づいていくも、結局は第一の事件の真相は明らかにならないままになっていき、例えば戦前であれば忠臣に対する評価は〇であったものが、現在では△から×に近づいているということだろうか(共謀罪適用)。

忠臣蔵第二事件について共謀罪がどの段階から適用になるのかというのは、わかりやすい例になるかもしれない。

なお、本で知った新しい話としては、吉良上野介は天皇家と上皇家の両方の使者をもてなすプロデューサーであり実際のもてなし係(御馳走掛)のうち天皇家の使者の担当は浅野内匠頭だった。つまり身分上は正規の大名の浅野の方が上だが、仕事の上では吉良の方が上司だった。

また、襲撃された吉良は下打ち合わせのため、老体ながら京都を往復していて、江戸にもどって本番のもてなしの日まで、10日間ほどしかなく多忙を極めていて、留守中に浅野が何も準備をしていなかったことに驚くと同時に慌てていたそうで、強く叱責したのかもしれない。

浅野からの賄賂が少なかったという説もあるが、確かに赤穂浅野家は先代が赤穂の塩を全国ブランドにして全国一の塩の生産量だったそうで、その割にケチだったのかもしれないが、だからといって目前の仕事のパートナーだったのだから、存在を否定するほど吉良が叱るとも思えない。

つまり、処分を決めた綱吉自体、何が原因なのかも知らないままで、色々と原因についてあやふやな話が後で出てきたため、綱吉も敵討を見て見ぬ振りをしたのではないだろうか。