台風接近の午後(日記風に)

2005-07-28 19:44:04 | 市民A
東京港区にある中小企業の集まる雑居ビルは、いまだに先週の地震による被害の点検を続けていて、見た目にはわからないが、エレベーターが予想外の動きをするので、乗る前には必ずトイレを済ませている。そして、次に台風が来た。

昼休みは、傘なしで近くのマックに行けたのだが(実際は傘を持っていたが)、3時ごろから雨が降り始めた。いくつかの天気予報を総合すると、本格的な雨は、夜になってからということだが、今ひとつ信じきれない。AMEDASなどの雲の状態を見ても、雨雲は台風の南側にあるのだが、しょせん台風は「気圧が低い気流の渦」であり、風や雨はその結果であり、いつ雲が発生して、いつ雨や風がひどくなっても誰も面倒見てくれない。

すると、机上のパソコンに社内メールがあり、総務部長殿より、「仕事に差し支えなければ、早く帰っても結構です」とある。要するに、ぐずぐずしていて、帰れなくなっても、会社は宿泊費やタクシー代は負担しません、ということを暗に宣言しているわけだ。それに、重要な話は、”放送するか自分で通告すればいいのに”、と思って総務部長の席を見ると、もう帰ってしまった。女性社員や足を捻挫している故障社員の帰途を見届けてから帰るべきなのにと思うが、21世紀は「自己責任の時代」であることを思い起こす。

そして、順次、社員は帰り始めたので私も社を出る。4時半。寄り道しようかと思ったが、やはり帰路につく。急行電車は混んでいる。みんな同じパターンだ。

東京と神奈川の間には、多摩川がある。普段は歩いて渡れるくらい水量は少ないが、大雨だと一気にあふれる。すでに大河と化し、ゴミが浮かぶ。浮かばないゴミや砂は川底をごろごろとしているはずだ。翌朝になると多摩川の橋が通行禁止かもしれないが、そうなると神奈川から東京へ向かう方法は99%なくなるので悩む必要もない。残る1%の方法は、アクアラインで川崎から木更津へ行く方法だが、その方法で会社に行くと、ほめられずに、ある病院を勧められるだろう。

濁流になるつど、多摩川は浚渫業者がやってきて、川砂の利益と、国庫からの臨時支出である浚渫料の利益を享受するのだが、怖い人たちの仕事なので誰も文句はつけにくい。浚渫工事自体はクリーンな仕事なのだから・・

東急電車は多摩川を最徐行で渡ったため、遅れを取り戻そうと、猛烈な「回復運転」を始めたので、車内が緊張する。「おいおい」だ。きょうの私鉄の目標は、時間厳守ではなく、「完走」のはずだ。風で揺れる架線を切ってしまったらどうするのだろう。

そして、雨の中を自宅近くまで歩くうちに、行くべきかどうか迷っていた「超党派議員の呼びかけによる共謀罪反対の市民集会」のことが頭に浮かぶ。千代田区内で夜6時半からだったのだが・・忘れていたわけではないのだが、超党派といっても、民主・共産・社民だったので、一方的なアピールになりそうなのと、その3党の議員は貧乏なので遠隔地に住んでいて、台風の前にあえなく「中止」するのではないかと勝手に判断してしまった。

帰宅後、連絡先の福島みずほ議員事務所に電話してみると誰も出ない。秘書給与疑惑を防ぐために事務所には人をおいていないのかな?次に隣に書いてある井上哲士事務所に電話すると、男性が出た。
葉一郎:「台風でも、市民集会は開かれるのですか?」
男性 :「集会・・開くのですよ。いえ、集会は時間通り決行します!」決意に火をつけてしまった。まさか本人か??よく考えると、今は国会会期中。みなさん議員会館にいるわけだ。帰りの足を気にする必要もない。

ところで、自分の不埒はさておいて、なぜ、ジャーナリズム各社が「治安維持法そっくり」の「共謀罪」に積極的反対をしないのか不思議に感じていたのだが、邪推すれば「本当は反対していない」のではないかとも思っているのだ。

何しろ、新聞のニーズは「報道」にあるのだが、報道の裏には、「事件」や「犯罪」が必要であり、「犯罪」の中でも「組織的謀略の一斉検挙」ほど「ニュース性」の高いものはないだろう。そして、そういう気持ちを持って新聞各社の歴史を考えてみると、毎日(1872年創刊)、読売(1874年)、朝日(1879年)と三紙は明治の時代から、営々と新聞事業を続けている。幾多の弾圧の時代も軟体動物のように生き抜いてきたわけだ、そして強く抵抗した新聞は、現存しないのだから口無しだ。

そして、残る大手二紙、産経と日経はどちらも、中小規模の全国の産業新聞を集約して現在の母体を作ったのだが、自主的に集約したわけではないのだ。どちらの新聞社の統合も昭和17年(1942年)11月の新聞統合令によるものなのだ・・・・・