たそがれの時代

2005-07-11 20:19:33 | 映画・演劇・Video
d1018404.jpg新しいパソコンで、DVDを観ようかと、ソフトの山を探してみると「たそがれ清兵衛」をみつけた。今頃観るのもおかしいが、なんとなく日本映画って映画館で見るのは気恥ずかしい。と思っていたら、まったく逆のことを考えている人もいるらしい。

真田広之と宮沢りえ、そして寅さんシリーズの山田洋二監督。時は幕末。病気の妻の医療費で貧乏になった上、こども二人を男手で育てなければならなくなった冴えない下級武士を演じるのが真田広之演じる「たそがれ清兵衛」。そしてその平凡な人生が、友人の妹(宮沢りえ)を剣で救うところから動き始める。彼の得意は二本差の長い方ではなく短い方であるというところがミソになる。

清兵衛は藩の剣豪が立てこもる屋敷に踏み込み、この剣豪を斬れという藩命を受ける。屋敷に突入する直前に、密かに心を寄せていた宮沢りえに髪を結ってもらうわけだが、このあたりの筋立ては映画の常道で、安心して見ていられる部分だ。そして、藩士のたてこもる屋敷の中で、彼は討つべき相手にうっかり身の上話をしてしまう。そして、過去に貧乏極まって、「米櫃の底が見える」まで困窮に至り、長いほうの刀を売り払い、竹光で代用している話を漏らしてしまうわけだ。そしてこの油断が、誘いの隙となり、室内での大格闘のすえ、小回りの効く短いほうの小刀で勝利にいたるわけだが、このあたりのくだりは、まさに現代のサラリーマン社会にでもあるような話だ。やはり寅さん的なのだろうか。

そして、この清兵衛の時代が幕末であることは、後半になって明らかになり、幕府側についた藩は、薩長軍に粉砕され、剣の達人である清兵衛も鉄砲の弾にあたり、亡くなる。そして先妻との間の娘が、真田・宮沢夫婦のことを大正の時代になって回顧するというようなことなのだ。

印象なのだが、世間の公式見解とは異なり、宮沢りえが主演のように思えてならない。彼女がでてくると、いつも相手が力不足になってしまう。どうも大女優になってしまい、同世代のお相手の男優が見当たらない。この映画でも、前半のみじめな貧乏侍の部分ではなんとか真田流でこなしているものの、途中で宮沢りえが登場して、心を入れ替えたサラリーマン(いや違う、刺客だった)を演じる部分では、対応しきれていない。慰謝料を払うため、神奈川県内の豪邸を売り払おうと、県内全域に中古住宅の折込チラシを撒き散らしていたころかも知れない。気もそぞろだったのだろうか。

「宮沢りえの共演者」というのが、今後の日本映画界のキーワードだ。

そして「米櫃の底が見える」というのは日本国の財政状況のキーワードだ。もちろん売るべき日本刀はないので、国債発行か増税か。まさに日本の行き先も「たそがれ」風だが、まあ、短い刀の方が有利な時もあるので、あきらめずに素振りくらいしておくべきか・・

ところで、足の捻挫をいいことに、DVDなど見ていると、次々に家人達がのぞいては、結末をしゃべりそうになる。まるで三島由紀夫作「豊饒の海・全四部作」の第一部「春の雪」を読んでいる人に、最後のところをしゃべってしまうようなものだろう。