毛利藩邸が六本木ヒルズに・・

2005-07-20 19:58:47 | 地図
ac5f54d3.jpg地図の話から。
先日、購入した「江戸・東京・重ね地図CD-ROM」。江戸といっても幕末の安政3年の地図と現代の東京の地図が、重ね合わせて見ることができる。では、使ってみる。

少し前に、六本木ヒルズに行った時、地下鉄六本木駅とは反対側に緑地があるのを発見。表示では、毛利庭園となっていて、毛利藩邸があったとされている。

そして、この場所を地図で調べると、まさに、六本木ヒルズもテレビ朝日も、長州毛利藩の藩邸内になっている。そして、毛利藩邸で有名なのは、四十七士が奇襲に成功し、自首した後、幕府から彼らの一部を預かることになり(押し付けられた)、さらに彼らには切腹が言い渡され、この藩邸内で、腹を切ることになってしまったのだ(介錯の首切りまで毛利藩で行ったかどうかは不勉強)。

ようするにヒルズの裏庭は、大量殺人(自殺?)の現場であり、不動産取引では「訳あり物件」になる。現代の毛利庭園内にも首を洗った場所とかの記録がうっすらとわかるような記載がある。


ところで、毛利といえば関が原の戦いでは一応西軍だったが、郵政民営化法案の衆議院での投票ではないが、戦闘からは、「棄権」したため、お取りつぶしは免れ、長門の国を与えられることになったわけだ。そして、下関は交通の要所であることから、常に幕府に監視されていたわけだ。幕府を無視していた薩摩藩ほどの豪快さはない。

しかし、長州と薩摩を歴史上で考えると、一つ謎がある。今まで聞いたことのないつまらない謎なので恐縮ものなのだが・・

現在、東京では、六本木の「毛利藩邸跡」、三田の「薩摩藩邸跡」と呼ばれている。かたや大名の名称(毛利)、かたや国の名称(薩摩)で呼ばれる。ところが、これが、上方(京都)では長州藩邸、島津藩邸と呼ばれているようだ。

ちょうどねじれている。これは、地図をみてもなかなかわからない。各藩邸跡を地図で読むと○○国○○○○とキチンと藩と大名を併記してある。

NETで検索しても、この謎に近づく記載は見つからない。あえて私見だが、歴史上の事件が先にあり、事件の名前として、現地で世間に流布してしまった場合は通称優先となるのだろうか??

誰か、この呼称の東西ネジレ現象の原因をお教え願えないだろうか・・