言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

平山周吉「昭和54年の福田恆存と、1979年の坪内祐三青年」

2023年07月15日 10時27分03秒 | 評論・評伝
 
 引き続き、『文學界』の福田恆存特集を読んでゐる。もう次の号が発売され、書店からはこの号は消えてゐるのに、少しづつ読み進めてゐる。
 余談になるが、この欄では何度も「5冊並行読書」といふことを書いてゐるが、今はその5冊ともが遅読を極め、机の上に積み重ねられたままだつたり、カバンの中に入つたままだつたり、本棚から取り出されたままといつた状況である。そのことに不満やストレスを感じてゐるが、読まないよりはましとの思ひが、この読書スタイルを形作つてしまつたのである。読み散らかしといふ、読書スタイルの「崩れ」が、新種の読書スタイルを「形作る」とは、いかにも言ひ訳のやうだが、案外私らしい気もしてゐる。
 10年経つたあとで今を振り返つた時に、「何一つ身につかなかつた」といふ後悔にも似た感慨にふけるだらうことは分かり切つてゐるが(『大いなる遺産』やら『楡家の人々』やら『宣告』やら『夜明け前』やら大作といふものを読みたいといふ願望はついに果たされず!)、現下の職業人としての生活では無理して大作と格闘するのは困難だと諦めた方が気分的に苦しまずに済む。
 年をとつていくとはかういふことなのかと思つた。

 さて、平山の福田恆存論である。と言ふよりも、これは坪内祐三論である。言つては悪いが、内容は取つ散らかつてゐる。元編集者として、作家や評論家の文章の構成には眼を光らせてゐたのだらうが、案外自分の文章にはその眼は行き届かないものなのだらうか。眼高手低といふ印象である。引用なのか地の文なのか、この主語は誰か、などは丁寧に読み返せば明らかになるのかも知れないが、雑誌なのだから、さらりと読む読者としては、あまりに論旨が蛇行するとパタリと本を閉ぢてしまひたくなる。それでも最後まで読めたのは、私に福田恆存や坪内祐三に対する興味があつたからである。
 とは言へ、面白かつた。特に坪内の早稲田大学文学部の卒業論文「福田恆存論」の中から、次の言葉を見つけ出してくれたのはありがたかつた。

「『二、相対と絶対』は、福田の『近代日本知識人の典型清水幾太郎を論ず』に即して論を進め、『自らが絶対者を模索しようと試みなければ、それはそれで新たな自己欺瞞に陥る』という危惧に及ぶ」

 まさにと思ふ。しかし、この指摘は清水幾太郎や丸山眞男に向けてのものだと見るだけでは十分ではない。福田恆存の愛読者にもその指摘は当てはまるのだ。
 福田恆存が「絶対者を模索しようと試みた」ことを失念し(あるいは無かつたことにしてゐる)、福田は、神道家であると言つたり(松原正)、絶対と相対の平衡を試みたと言つたり(西部邁)、絶対者を見ずに人間への懐疑だけを評価したり(中島岳志)といふ言説は、やはり「自己欺瞞」になつてはゐまいか。相手の主義主張の相対性を批判するに当たつて、自分の信じる主義主張を持つてくるだけでは相対主義同士の対立に過ぎない。絶対といふ観念がなければ、「大きい声が勝つ」といふ現実から逃れられない。
 絶対といふ観念がじつに恐ろしいのは、自己も他者も否定する存在であるからである。しかし、そのことはなかなか理解されてゐない。
 西洋は絶対者の世界であり、日本は八百万の神の世界であると言つて、西洋世界を相対化したと思つてゐる知識人は多いが、さういふ相対主義を成立させないのが絶対者の存在であるといふことを、彼らは本当に分かつてゐるのだらうか。私はいぶかしく思ふ。絶対者とは相対的関係を結べないから絶対者なのである。「私」がそれを信じるか信じないかではない。「私」の「信」を根拠にするなら、それは相対者である。
「西洋の絶対者=八百万の神の一つ」といふ図式では西洋は分からない。せめて「西洋は分からない」と断念するのが近代日本知識人の良心的行動であるべきだらう。自己欺瞞に陥らないとはさういふことだ。
 福田恆存の一歩深いところは、その断念と共に、それでも日本には回帰しないぞといふ覚悟があるところである。平山の言ひたいこと(坪内がとらへた福田恆存像)はさういふことである。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下西風澄「演技する精神へ」福田恆存論

2023年07月09日 20時59分12秒 | 評論・評伝
 これからの福田恆存論は、全て第三世代のものである。浜崎洋介はその筆頭だらうが、それよりも若い書き手による福田恆存論は初めて読んだ。そして大変真直ぐで頭が整理される逸品だつた。
 「しもにし・かぜと」とお読みする。1986年生。哲学がご専門の文藝評論家と言つてよいだらうか。
「いま私たちが、劇作家であることで成立する思想家、福田恆存を読むことの意味は、どこにあるのだろうか」で始まる論は、『人間・この劇的なるもの』といふ福田の主著に対する真直ぐな問ひかけである。そして、個と全体とを同時に見つめて振る舞ふ福田の論じ方を演戯として捉へる視点は、強く同意する。
 その上で、下西はさらにかう問ふ。
「絶対的なる神なき日本において、しかも『自然』という全体性が失われた近代以降の日本において、『全体』なるものはいかに倫理として機能するのか」と。
 福田恆存が危惧した状況よりもさらに「行くところまで行つてしまつた」近代日本において、福田の論は今ならかう問ひを改めるべきであるといふのである。

  ここからは、河合隼雄の論に寄りかかりすぎではあるが、母性原理と「永遠の少年」の2つの術語で綺麗に整理してくれてゐる。タイトルにある「演技する精神」とは、もちろん山崎正和の論文のタイトルであるし、本論では山崎にも触れてゐる。私には十分に満足する論の進め方であつた。

 しかし、その一方でかういふ思ひもある。それは「絶対的なる神なき日本であり、それを代替してゐた『自然』の全体性が失はれたのであれば、今こそ絶対的なる神に正面から立ち向かつて行くべきではないか」といふことである。
 私の福田恆存論はそこから始まつてをり、演技でない演戯とはその表象であると見るのだが、どこからも声はかからない。それもまた日本的近代である。


 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする