言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

福田恆存とドナルド・キーンとの往復書簡

2023年07月24日 21時12分22秒 | 評論・評伝
『文學界』7月号を読んでゐる。
 昭和30年に、二人は書簡を送りあつてゐる。福田恆存のご次男の逸氏が、これからそれを公刊するやうで、その一部がこの度掲載された。
 これがすこぶる面白い。意外だつたのが、福田恆存は助動詞「やうだ」を「ようだ」と書いてゐること。そして以前から知られてゐたが、漢字は決して繁体字にこだはつてゐないといふことである。これをもつて言行不一致や、『私の国語教室』の主張を裏切つてゐるといふのは早計である。前者については間違ひは誰にもあるし、後者については日常的には画数の少ない字を書くといふことに過ぎない。仮名は発音記号ではないといふことや、漢字はその歴史性を踏まへよといふ主張にはいささかも傷はつかない。
 さて、本文であるが、これが非常に面白い。
「過去の日本には、クリスト教的な絶対唯一神もなければ、宗教を基にし宗教に帰結するような人間全体感(妙な言葉で恐縮です)もありませんでしたが、それでも、日本人は日本人なりに罪の意識がありました。少なくとも自己を犠牲にし、自己の善悪を判断し、自己を奉仕せしめるにたる全体の観念といふものがあり、それに背くことは罪だつたのです。ですが、明治以後それも破壊されてしまつたのです。論理的には、現代の日本人には、なにを善しとし何を悪しとするか行為の基準がありません。あるのは一片の常識です。」

続く
 
 
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