言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

小学生は面白い。

2023年07月31日 14時53分27秒 | 評論・評伝
 
 仕事で、久しぶりに小学生相手に国語の授業をすることになつた。
 題材は何でもよいといふので、内海隆一郎の「芋ようかん」といふ小説を読むことにした。話は単純で、老夫婦がやつてゐた老舗の和菓子屋が舞台。初代のおじいさんが亡くなり、息子の代になつた。おばあさんは、芋ようかんつくりに精を出してゐたので、そのままつくり続けるつもりでゐた。しかし、ある日息子から「そんな利益の少なく、売棚の幅ばつかり取るやうな芋ようかんなんか止めて、大手のお菓子製造会社がつくつた出来合ひを並べた方が、今日日のお客のニーズにあつてゐる。しかも利益が大きい。だから、もう芋ようかんつくりはしないでいいよ」(この台詞はそのままではない)と言はれ、しぶしぶ諦めることになつた(もちろん、内心は腹が立つてゐる)。
 そして、芋ようかんつくりの時間がなくなり、はじめて町内会の温泉旅行に言つた折に、近所の人々から「あの芋ようかんが食べたい」と言はれ、「やはり作らう」と決心する。旅行から帰つた翌日からつくり始めた。
 息子とは言ひ争ひにはなつたが、今度は嫁も孫も応援してくれる。やはり近所の評判を聞いてゐたのだらう。息子も仕方なく受け入れた。
 こんな話である。

 読み終はつて、「さて、この小説、作者は何が書きたかつたのだらう」と訊いてみた。
「さみしさだと思ひます」
「誰の」
「つくる人の」
「でも、最後には再びつくり始めたよね」
「うーん。でもおばあさんは悲しんでゐました」
「さうだね。そして、食べ続けた人も、それが無くなつて悲しかつたよね」
「他には」
「伝統が失はれる悲しみ」
「えー、伝統なんて言葉知つてるの」
「使つたことなかつたけど、初めて使ひました」
「それはすごいね」
「でも、考へてみて。君たちの近所に『老舗の和菓子屋』つてある」
「ありません」
「でも、いろんな和菓子食べたことあるよね。例へば『シャトレーゼ』つて知つてるでせう。あそこで安くて美味しいものを買つて食べてゐない」
「あー、ほんたうだ」
「だよね。頭では『さみしい』とか『伝統』とか言つてゐるけれど、結局は大手のお菓子屋さんがつくつた「安くて美味しいもの」を買つてゐるんだよね」
「この小説は、さういふ私たちは『息子さん』の立場なのか、『おばあさん』の立場なのか、あるいは自分では当事者にはなつてゐない『お嫁さんやお孫さん』の立場なのか、それを考へさせてくれたよね」

 授業は、時間切れで終はつてしまつたが、随分面白く刺戟を受けた。そもそも「この小説で、作者は何を書きたかつたんだらう」などといふ質問をしようとも思はなかつた。「小説には何が必要か」と投げかけたら、すかさず「主題」なんていふ返答があつたから、ついそちらの方向に行つてしまつた。「主題」などといふ言葉を、私は滅多に使はない。

 小学生を教へるのは得意ではないが、彼らの力が授業の推進力を引き出してくれた50分だつた。

コメント
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