言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

下西風澄「演技する精神へ」福田恆存論

2023年07月09日 20時59分12秒 | 評論・評伝
 これからの福田恆存論は、全て第三世代のものである。浜崎洋介はその筆頭だらうが、それよりも若い書き手による福田恆存論は初めて読んだ。そして大変真直ぐで頭が整理される逸品だつた。
 「しもにし・かぜと」とお読みする。1986年生。哲学がご専門の文藝評論家と言つてよいだらうか。
「いま私たちが、劇作家であることで成立する思想家、福田恆存を読むことの意味は、どこにあるのだろうか」で始まる論は、『人間・この劇的なるもの』といふ福田の主著に対する真直ぐな問ひかけである。そして、個と全体とを同時に見つめて振る舞ふ福田の論じ方を演戯として捉へる視点は、強く同意する。
 その上で、下西はさらにかう問ふ。
「絶対的なる神なき日本において、しかも『自然』という全体性が失われた近代以降の日本において、『全体』なるものはいかに倫理として機能するのか」と。
 福田恆存が危惧した状況よりもさらに「行くところまで行つてしまつた」近代日本において、福田の論は今ならかう問ひを改めるべきであるといふのである。

  ここからは、河合隼雄の論に寄りかかりすぎではあるが、母性原理と「永遠の少年」の2つの術語で綺麗に整理してくれてゐる。タイトルにある「演技する精神」とは、もちろん山崎正和の論文のタイトルであるし、本論では山崎にも触れてゐる。私には十分に満足する論の進め方であつた。

 しかし、その一方でかういふ思ひもある。それは「絶対的なる神なき日本であり、それを代替してゐた『自然』の全体性が失はれたのであれば、今こそ絶対的なる神に正面から立ち向かつて行くべきではないか」といふことである。
 私の福田恆存論はそこから始まつてをり、演技でない演戯とはその表象であると見るのだが、どこからも声はかからない。それもまた日本的近代である。


 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする