大阪から愛知に戻るに当たつて奈良を経由して行くことにした。
昨年の七月八日の事件後、あの場所はどうなつてゐるのか気になつたからである。
すでに道路が作られ、その場所は跡形もない。少し離れた歩道側に花壇が設置されてゐた。道路の反対側には人工芝が引き詰められてゐて、高校生十人ほどが寝そべつてゐた。排気ガスの舞ふこんな場所に寝そべつてゐること自体に違和感があるが、この場所がどういふ場所であるかといふことなど全く考へずに、以前からの計画通りに道路づくりを進めた国土交通省や県庁の見識への違和感からすれば大したことはない。子供は知らないのである。慰霊の精神も行政への検証もである。
七・八事件についての奈良県の姿勢は徹頭徹尾誤つてゐる。花壇を設置して終はりである。あれだけが当初の設計とは違ふことなのであらう。世俗的な民主主義では、これがせいぜいのところだるとすれば、それは奈良県の姿勢だけを責めてはゐられまい。私たちの民主主義の貧困である。
高校生の寝そべつてゐた人工芝に、「安倍晋三終焉之地」といふ碑を建てれば、彼らもあのやうな姿をしないであらう。
その碑すら建てられないことが、民主主義の貧困の象徴である。