言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『個人主義の運命』を読む。

2017年02月06日 21時51分20秒 | 文學(文学)

 当ブログのタイトルは、「言葉の救はれ・時代と文學」である。言葉を蔑ろにしてゐる風潮を批判しつつ、その上で近代や現代の文學からどいふ時代像が読み取れるのかといふことを意図してゐる。言葉が存在のすみかであるなら、言葉をいい加減に使へば、存在自体もいい加減になる。さういふ人たちの作り出す時代において文學は、どういふ造形を結ぶのか(作品を生み出すのか)。悲観的にならざるを得まいが、現代文学を見続けることを放棄しないやうにしようと自戒してゐる。

 ただし、続けてお読みいただいてゐる方はよく分かると思ふが、ここのところ小説を読んでゐない。文藝雑誌は毎月目を通す。しかし、最後まで読む気がしない。それよりは古典や現代批評を読んだ方が面白い。さういふことが続いてゐる。もちろん、このことは私の小説読みの下手さにも原因があるだらうから、全面的に現代小説を否定することはできない。だが、やはり根本的な原因は言葉を大事にしないといふ風潮にあるだらう。言葉で生きる。言葉を杖にして生きていく。さういふ意識があるとは思へない。道具の使ひ方も不十分なままに、勝手に何かを作らうとするから、不細工なものしかできないといふことがあるのではないか。そんな懸念を払拭することができない。

 標題に上げた本は、社会学者の作田啓一氏の本である。1981年初版。岩波新書黄色版。高校三年生の時に出たものである。もちろん、当時はその存在を知らなかつた。一所懸命、亀井勝一郎や小林秀雄を受験勉強の合間に読んでゐた。漱石の『こころ』に感動し、良心の呵責で人は死ぬことがあるののだといふことを体の芯に埋め込まれた。さうだ、さうだ、さういふことがあるのだと感じてゐた。近代文學が豊かに含んでゐた近代人の孤独を、漱石は言ふに及ばず小林も亀井も凝視してゐた。そして、それが成熟の道だと思つてゐた。

 作田啓一もまた、さういふ意識で近代小説を読んでおり、それを社会学的にとらへたのが本書である。とても面白い。漱石の『こころ』についても触れられてゐる。「先生」の自殺について、そのきつかけが乃木大将の殉死であり、「明治の精神に殉死する」と記されてゐるが、それは漱石が近代人の「欲望の個人主義」によつて「個性の個人主義」が滅びることを予感し、その危機感ゆゑであるといふ見立てを書いてゐる。作田のこの理路はにはかには分からないが、漱石の「自己本位」が、作田の「個性の個人主義」といふことを意味するのだらうか。こちらの思考が刺戟されて痛快である。

 『こころ』は上中下となつてをり、下の「先生の遺書」が最も大きな分量を占めてゐる。先生と青年との関係なら上と中はいらないといふことにもなりかねないが、さうではない。漱石の中にはある必然があつて、上と中があつたのである。先生とK。先生と両親。そして青年と両親。いづれの関係も敬意と怨恨とを孕んでゐる。行動には意志がある。さう思はれてゐる。近代人は自我が中心にあると思つてゐる。しかし、関係が意志も行動も生み出してゐるとは考へられないか。漱石は近代人の自我に焦点を当てて「孤独」を描き出しつつ、そのすぐ横にその「孤独」を生み出した自我といふもののはかなさをも描き出してゐるやうでさへある。自我もまた関係の生み出した「音」、衝突音であつたり、軋み音であつたり、美しい響きであつたりするのではないか、さう思ふ。「こころ」といふタイトルの現代的な意味は、さういふ理解を可能としてゐる。

 小説から時代を読み取れる可能性はまだあると思ふ。

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