言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「言う」を「言ふ」と書くのが「混乱」とはどういふことか!

2016年05月09日 13時06分53秒 | 文学

 今月21日(土)、東京で国語問題協議会の講演会がある。そこで大東文化大学の山口謡司氏の講演会があり、氏のことが気になつてご著書を取り寄せて読んでゐる。

 私が読み始めたのは『となりの漱石』といふ本だが、山口氏は言語学・書誌学がご専門のやうで、この度新著『日本語を作った男 上田万年とその時代』を上梓した。

 好評のやうで、各紙に書評が載つてゐる。私が読んだのは読売新聞のものだが、そこに評論家の松山巌氏が、次のやうに書いてゐた。

「明治維新直後は標準語もなければ、言葉を表記する仮名遣いも統一されず、人々は生まれ育った土地の言葉とアクセント、つまり方言で話し、しかも江戸時代の名残で身分、つまり士族と農民、職人と商人では使う言葉も違っていた。更に例えば「言う」という言葉も「言ふ」と書くように日本語は混乱していた。」

 何も分からない人は、この部分を事実を述べたものといふやうにとらへるに違ひない。それで「なるほど、なるほど。上田先生は偉い学者だ」といふことになる。しかし、こつそりとしかししつかりと、この文には聞き捨てならない価値判断が刷り込まれてゐる。「言う」を「言ふ」としたのが「日本語の混乱」としてゐるところである。

 これが果たして、上田の思想なのか、あるいは山口氏の思想なのか、はたまた松山氏の考へなのかは不分明だが、いづれにしても間違つてゐる。

 事実はかうだ。江戸時代に仮名遣ひは混乱し、明治になつて政府は、その統一の必要に迫られてゐた。そこで、仮名遣ひに腐心してゐた契沖、宣長以来の伝統に鑑み、「歴史的仮名遣ひ」といふものを作り出していつた。上田の思想が役立つたのは、近代国家の成立にはどうしても書き方の基準が必要であるといふ発想においてであつていふうかっこかっこ、「言ふ」を「言う」にしようとしたらところにはない。

 「言文一致」といふことを、「話し言葉と書き言葉を一致させる」といふことに単純化し、表記においても発音通り書くことが正当であるといふやうに考へる人が文章を生業にする人にも多い。だから、この書評のやうに「言う」は「ゆう」もしくは「ゆー」と話してゐるのだから、少なくとも「言ふ」と書くのは「混乱」であると見るのだらう。しかし、それはあまりにも無知である。松山巌氏とはどういふ人物かを私は寡聞にして知らぬが、かういふ近代日本語認識で、どういふ評論が書けるのか、疑問である。

 山口氏は、かういふ書評を書かれてどう思ふのか。講演会に行くことになれば訊いてみたい。

 

コメント (1)
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