言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

物思ふ存在

2016年05月17日 08時52分24秒 | 日記

  昨日から、事情があって伊豆の韮山に来てゐる。韮山といふ地名は行政上はもうないらしく、今は伊豆の国市といふやうだ。私が育つたのは韮山だからどうもピンとこない。名前の中に存在があるとは思ふものの、かういふ場合にはちょつと違ふなと感じる。

  年老いた両親がゐなくなれば、きつとこの地は唯の思ひ出の場所としてとなり、友人がゐるうちはそれでも通ふことがあるかもしれないが、それも老いと共に減り、いつしか縁のない所になつてしまふ。まあさういふことだ。

  昨日は曇天。今朝はかなり強い雨。あいにく富士山は見られない。しかし、雲の向かうには瞭然と富士が据はつてゐる。この地の魅力の大方は富士山にある。昨夜地震があつて少し驚いたが、熊本にとつての熊本城は、この地では富士山だらう。この山が崩れたら、多分この地では生きていけなくなるだらう。もつと言へば日本人がダメになつてしまふのではないか。

  今、政治家の政治資金の不正利用や女性芸能人の不倫疑惑が報道されてゐるが、そのことを報道することが無意味なのは、その事件自体に理由があるのではない。その報道を取り上げる側もそしてそれを見る側も、自分とは縁のないものと思つてゐるといふことである。見てゐる私たちが政治家にも芸能人にもなる可能性はないといふ意味では確かに縁のない話ではある。が、同じく現代に生きる者として倫理の欠如は共有してゐる問題であらう。となれば、あんな気楽な取り上げられ方では済まないはずだ。もつと深刻に取り上げろといふにではない。見物人としてだけ見てゐる呑気さが気になるのだ。

  相対主義に毒されてゐる私たちは、倫理といふことも、バレなければ良いものと考へてゐる。そのことを私たちは日々の報道で確認してゐる。しかし、それはいつでも他人事だから、そのことの危険性について無頓着でゐられる。しかし、何かシンボリックな物が壊れると一気に現代の危機を目にすることになり、恐怖に襲はれる。

   物にまつはる思ひは、案外深いところで私たちの存在に関はつてゐるやうだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする