朝日新聞に、沢木耕太郎氏が映画評をずつと書いてゐる。「銀の街から」といふタイトルだが、私の趣味に合はない映画について書いてゐるときや、プロ好みにすぎて、小劇場でしか上映しないやうな映画について書いてゐるときは讀まない。
といふことは、ほとんど讀まないといふことで、映画は娯楽と割り切つてゐる私は、この欄の良い読者ではない。しかし、たまたまこの夏に見た宮崎駿の「風立ちぬ」について、先日沢木氏が書いてゐたので、讀んでみた。
これが実にひどい。一言で言へば、「これは私が理解してきた宮崎駿ではない」といふことである。なぜ、さう思つたのかといふことについては、ここでは触れない。しかし、根本的な疑問は、宮崎駿が沢木氏の願つた通りの映画を作らなかつたからと言つて、「宮崎駿がこれを最後の映画にしていいとは思えない」と書くのは穏当かといふことである。この批評は度を越してゐる。この文の構造もめちゃくちゃで、「宮崎駿が」といふ主語に対する述語がない。「~していい」と「思えなかつ」たのは沢木氏であつて、宮崎駿氏の名前は出てゐるが、じつは沢木氏の強烈な片思ひに過ぎない。「彼女が私を嫌ひになつていいわけがない」と発言する友人には、「お前馬鹿か」「もうあきらめろ」と言つて上げなければならない。さうしないとストーカーになつてしまふかもしれないのだから。
自分自身の理解のうちに対象を閉ぢ込めてはならない、これは批評の鉄則である。相当に「風立ちぬ」の思想や出来が気に障つたのだらう。
私は、「風立ちぬ」いい映画だと思ふ。二郎と菜穂子の出会ひと深まり、沢木氏が「物語の階段」がなかつたと書いたが、それはほとんど言ひがかりに近い。病を押して二郎の元に来る。そんな妻を見守るために、妻の手を握りながら仕事を家に持ち込んででも続ける二郎。ここに「成長の物語」や「物語の段差」がないとは、どういふ料簡だらうか。びつくりである。
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