言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

近代藝術の終はり? 現代藝術の始まり?

2013年09月08日 11時30分56秒 | 日記・エッセイ・コラム

 福田恆存が始められた現代演劇協会の、創立50周年を記念する公演「夕闇」(ノエル・カワード)を見に、久しぶりに東京に出かけた。120席ほどの客席しかない会場は満員ではあつたが、これが最後の公演とは正直寂しい。つまりは、創立50周年が解散記念の公演になるといふことであつた。一人の男が余命九ケ月を宣告される芝居の内容は、そのまま余命のない協会の最後の舞台といふことであらうか。日本語で話される夫婦の会話は、やはりどこか日本的夫婦の会話のやうで、どことなく湿度のある互ひが浸食しあつてゐる印象が強く、一人の孤独に耐へてゐるといふ干からびたチーズのやう(どこかで聞いたやうな比喩)なものではなく、ワインがしみた古いパンのやうなものであつた。前者ならあきらめるしかないが、後者ならもつたいないなといふ思ひの方が強い。それにしても、これだけの人しか集まらないのであれば仕方ない。床のカーペットも、柱の作りも、舞台の調度品も、壁にかけてある絵も、照明の質感も、じつに四日間の公演だけに用意されたものとは思へない出来である。真面目な取り組みが福田恆存の精神なのであらうが、続けることの意味もそこに加へられて、手を抜くところは手を抜いて、もつと長く続けることを考へても良かつたのではないかと思ふ。

 アサーミラーの『セールスマンの死』は、どこかの舞台で上演されるのであらうが、シェイクスピアの正統な舞台は、もう見られないのであらうか。どうせなら、福田恆存が生きてゐた時代に、自ら幕を引いてほしかつた。

公演は、本日8日まで。

Pop_art

 さて、この公演を見る前に、いつもながら美術館に行つてきた。今回もまた東京新国立美術館、「American Pop Art」展である。1960年代以降の現代芸術は、このポップアートに代表される。その印象は、広告である。ポスターであり、パッケージであり、商品の意匠である。それが現代を表現してゐる、といふのは確かにその通りであらう。写真の発明が、絵画の意味の再定義をほとんど脅迫状のやうに近代美術に求め、印象派、抽象表現主義を経て、意味そのものを拭ひ取るといふ方向で美術が変化してきた。アンディ・ウォーホル、ラウシェンバーグ、ジョーンズ、リキテンスタイン、オルデンバーグ、ローゼンクイスト、ウェッセルマン、私には未知の人もゐるが、かういふ人々が輩出され続けたといふことは、現代藝術にさういふものが求められたといふことであらう。

 今回の作品は、そのほとんどがジョン・アンド・キミコ・パワーズ夫妻のコレクションである。まだほとんど無名であつた作者による作品群を当時から買ひ集めた「卓見」は鋭角的だ。時代がどういふ性質のものであるのかを知つてゐたといふことは、絵画蒐集家として卓越してゐる。

 では、さうしたものが、果たして現代藝術の始まりを意味するのかと言へば、私にはどうにも近代藝術の終焉にしか感じられなかつた。その価値を否定してゐるのではない。私は感動して見てゐた。どう見たつて美術ぢやないといふ内心の声を聴きながら、これしかなかつたんだといふ声を同時につぶやいてゐた。きちんと終はらせるには、彼らの藝術をきちんと社会に受け入れさせることが不可欠なのである。ひつそりと終はつてはいけない。徒花であつても咲かせなければならない、さういふ気概をそれらから感じた。当時においては相当に活きがいいものであつたはずである。もちろん、かうしたものが五百年経つて、修復作業を加へるに値するものになるかどうかは分からない。しかし、20世紀後半とはかういふものが求められてゐた時代であつたといふことを示すには、恰好の資源とならう。そのとき、美術史の教科書に現代藝術の始まりと書かれてゐるのか、あるいは近代藝術の終焉と書かれてゐるのかは分からないが、そのキッチュな感触は、確かに私たちのものであるとは言へる。岡本太郎に対しても私は同じ思ひであるが、皮相で偽物であるがゆゑに現代であると感じる。そして、私はそこに惹かれてしまふ。単なる好事家として、これら現代藝術に切ない思ひを抱き続けてゐる。

10月21日まで。

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