言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『プリンセス・トヨトミ』を讀む

2011年05月12日 21時40分37秒 | 本と雑誌

プリンセス・トヨトミ (文春文庫)

プリンセス・トヨトミ (文春文庫)
価格:¥ 750(税込)
発売日:2011-04-08

 

 万城目学の『プリンセス・トヨトミ』を讀んだ。以前、テレビで『鹿男あをによし』を見て、なんだか不思議な作風だなといふ思ひを抱きながら、毎週そのドラマを樂しみにしてゐた。何がいいのかと訊かれると「う~ん」と考へてしまふが、まあ頭を休めるのには丁度いいのであつた。エロティックでもグロテスクでもなく、歴史を背景にしたエンターテーメントとしては良質だらうと思ふ。作者が私が務めてゐる學園の卒業生といふこともあるのだらうが、生徒に對する指導に「校則を十囘書かせる」といふ話が出て來たが、妙に親近感があつた(本校は般若心經を書かせるのであるが)。その後、DVDで『鴨川ホルモー』を見て、少少その馬鹿さ加減には呆れたが、そこに出て來た「ホルモー」の妖精はかはいらしくて愛敬があつた。

   それで、間もなく映畫化されるといふこともあつて、表題作を讀んでみた。最高傑作と呼ばれてゐたから、少し氣合を入れてゴールデンウィークを使つて讀んでみたが、これまた「う~ん」といふ感じである。映畫化やドラマ化されるのがよく分るほど、何だかシナリオを讀んでゐる感じである。筋の展開だけで讀者を引きつけるのは、作者の力量ではあらうが、果たしてそれだけである。

   求めてゐるものが違ふと言へばそれまでであるが、かういふ趣向のなかにも或る種の文章的魅力や氣の利いたセリフの一つ二つでもあれば、もつと良かつたのに、と思つた。因みに昨日高野山から下山して來た身から言へば、金剛峰寺が豐臣家の永代供養を擔ふ寺でもあるからプリンセス・トヨトミの出自に關してそのいきさつなどを話題を盛込むことも可能であつたと思ふ。そこでは僧侶との會話も可能となるし、徳川家やその後の明治政府からどう遠ざかりながら生きてきたのかを、京都から遠ざかつた高野の地に寺を建てた空海の言葉を引用することも可能であつた。万城目さんも高野山に修養に行つたはずであらうに・・・・・・

   万城目ワールドを樂しみにしてゐる人には、彼はきつと天才に見えるのであらう。それほどの吸引力があるのは確かである。現に私の家内は「はまつてゐる」。そして、もう最新作『偉大なる、しゅららぼん』を讀み了へてしまつた。すごいことだ。

偉大なる、しゅららぼん 偉大なる、しゅららぼん
価格:¥ 1,700(税込)
発売日:2011-04-26

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明日から高野山へ山ごもり

2011年05月08日 22時27分19秒 | 日記・エッセイ・コラム

 生徒の引率で、明日から高野山への山ごもり。弘法大師が今もいらして奥の院で祈りをささげてゐると伝へられる場所。未曾有の震災を受けて、今弘法大師が何を祈つてゐられるか。その声を御聞きすべく祈つてきたい。

 早朝から深夜まで、引率する私たちの方がじつは修行である。四年ぶりの高野詣で、緊張する夜である。

 授戒をうけるその日までに、生徒らは何の誓ひを立てるであらうか。誠実で真剣な精神統一の場とならんことを祈つてゐる。

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土下座をさせるな

2011年05月05日 07時27分24秒 | 日記・エッセイ・コラム

 昨日、テレビを見てゐたら、東京電力の社長が被災地を廻つてゐる樣子が報道されてゐた。東京電力の上層部の對應がまずいことは、今更言ふまでもないが(平岩外四が生きてゐればこんなことは無かつたといふ人がゐるがそれはどうかしらん)、だからと言つて被災者が土下座を求めるといふのはあまり見てゐて氣持ちのよいものではなかつた。第一、それでは何も變らないからである。もつと實質的な要求をすれば良いのに。もちろんまづは氣持ちの處理が大事なのであらう。だから、避難所で暮らす人にとつては溜飮を下げることがいの一番に求められることだつたといふことなのかもしれない。しかしながら、人が人に土下座をさせるといふことはさせてはならないことである。

  それから、テレビの次の場面では菅首相の被災地巡りが映り出された。こちらでは、被災者が「政治家もこのやうな場所に住めばいい」と言つてゐた。しかし、これも違ふと思ふ。もちろん、首相の對應の拙さは常軌を逸してゐるが、政治家が避難民と同じ生活をしてどうするか。ここでもまた彼等が求めたのは、惡態ついて溜飮を下げることであつた。つまりは精神の處理である。

  かういふ姿こそが、やはり現代日本人の實情であらう。確かに二ヵ月も經つて何もできない政治や大企業の體たらくは、人人を怒らせるが、その怒りの處理が土下座を求めたり、避難所生活を求めたりといふ形でしか表現出來ないのは、さういふ解決法しか持つてゐないといふ國民の側の劣化も示してゐるといふことでもある。もちろん、その人たちは一部ではあらう。しかし、大部分の人は、その一部の人をやめさせられずに見て見ぬ振りをしてゐたのであるから同じである。

  企業家には經濟的解決を求めよ。政治には政治的解決を求めよ。それでいいではないか。企業家や政治家に心の處理まで求めても、空しくなるだけではないか。

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