言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

眞劍であることが忌避される時代

2011年01月13日 21時41分29秒 | 日記・エッセイ・コラム

   眞劍であることはいつの時代にもある。ここ關西では、あの阪神大震災から16年が經つて、夕方のニュースなどで當時はあまり取り上げられなかつた事柄に焦點を當ててゐる。死者の蔭に隱れて大變な障碍を身體や精神に受けた人が數多くゐたであらうことは想像にかたくないが、「死なないだけましだ」といふ遺族の聲に掻き消されて靜かに苦痛に耐えてきた多くの人がゐたことを十六年經つて報道し始めてゐる。實に眞劍で深刻なことである。トルストイを引くまでもなく、不幸の形はそれぞれであるから、その不幸に見舞はれた人の状況は深刻で、眞劍な人生の問題である。そして、一皮剥けば、私たちの人生もまたその眞劍さに接するに違ひないところで生きてゐるのも深刻な生の事實である。

   深刻でないことを深刻であるかのやうに取り上げることが多くて、本當の深刻さに氣附いてゐないとでも言つたら良いのであらうか。さういふことを考へてしまふのである。

   漱石の『こゝろ』を今また讀んでゐる。必要があつて讀んでゐるのであるが、淋しい人間である漱石のその淋しみがどれだけ深刻であつたのか、それを傳へることができるかどうか心許ない。もちろんこの作品の文學的な位置附けやこの作品の缺點は研究者からすればそれこそ山ほどあるであらう。あるいは、どうしてこんなものを教科書に載せるのかと早稻田大學の石原先生邊りからは批判が出るかもしれないが、それでもこの作品ほど世代を越えて讀み續けられてゐる作品は外にないといふ事實は重い。大正二年に書かれたから、間もなく百年にならうとしてゐる。立派な古典である。廣く日本人に共有されてゐるといふ意味ではバイブルと言つても良いだらう。かういふ敗北者の文學が近代日本のバイブルになつてゐるといふこと事態は悲劇であるが、その宿命を背負ふことなしには漱石の精神を受け繼ぐことも乘り越えることもできない。しかし、どうだらうか。漱石から遠くはなれてゐるだけではないだらうか。

   もう漱石は必要ないと斷言出來る人がゐるだらうか。東大の小森氏でも早稻田の石原氏でも決してさういふことは言へない。言へないけれども批判したり、いぢくり囘したりはする。それが現代の大學の文學部で行はれてゐる研究であらう。そこにすら眞劍であること、深刻であることはない。

   だが、間違ひなく眞劍なことはある。

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