言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『解つてたまるか!』千秋楽

2009年01月11日 08時50分18秒 | 福田恆存

   今囘の『解つてたまるか!』公演の本日が最終日。昨日の段階では、まだ當日券があるやうです。京都に御住ひの方、または近隣の方、さらにはこの芝居をまだ觀てゐない方、ぜひとも御覽になつていただければと存じます。

   この公演を機會に、福田恆存のこの芝居に對する解釋をざつと讀み直してみた。初演當時は、進歩的文化人批判の芝居として荒正人らから批判があつたやうだが(もちろん、福田の創作意圖はそこにはない)、今日ではさうした批判すらもはや受けることはない。なぜなら、もう進歩的文化人などゐないからである。いや、正確に言ふならすべて進歩的文化人になつてしまつたのであり、市井に息づいた教養の傳統も忘れられ、福田恆存の揶揄が揶揄でなくなり、空中をさ迷つてゐるばかりである。

   この芝居が書かれた同じ時期(昭和43年)に、福田には「僞善と感傷の國」といふ評論がある。この評論とこの芝居とは合はせ鏡の存在であると思ふ。惡に對して感傷的に批難し、僞善的に振舞ふ――この芝居に引き寄せれば、村木が殺人を起してもしかたないほどの差別があつたことを感傷的に批難したり、殺人者であることに必要以上の同情を寄せる僞善を示す――かうした私たちの國民性を諷刺してゐるのである。もちろん、この諷刺から作者だけが免れてゐるとは福田自身も思つてはゐまい。むしろ、そこからがほんたうのこの芝居の主題であると考へてゐるやうだ。それは何か。現代人の孤獨である。村木の自殺もこの線で説明する他はない。しかし、笑ひの後の村木の孤獨感をどう描くか、かなり難しいと思ふ。

   福田恆存には「塹壕の時代」といふ講演文があるが(「塹壕」とは敵から見えなくなるやうに作る堀)、敵の見えない時代には、かつてははつきりと諷刺できてゐた存在が見えなくなり、舞臺上での登場人物のやり取りから現實性が蒸發してしまつた。今囘の芝居が苦戰してゐるのも、さうした時代の空氣を讀み切れてゐないといふことがあるのかもしれない。「僞善と感傷」は今日でも致るところにあるけれども、それを射拔く演出とはどうしたら良いのか、あるいは、福田恆存の本そのものに限界があるのか、それは解らない。事實は、御覽いただくしかあるまい。樂日の演戲がどうなるのか。これは内容とは別に興味深い事柄でもある。

劇団四季のホームページ

http://www.shiki.gr.jp/applause/wakatte/index.html

京都劇場(JR京都駅構内)

 上演時間 約2時間55分

 一般料金=S7,000円 A5,000円 B3,000 (A学生料金3,000円)

    ついでながら、先日、終演後のオフステージ講座で、福田恆存についての談話があつた。瀬戸内搜査本部長役の山口嘉三氏が、かう言つてゐたのが印象的だつた。「福田さんは、いつも普通の人だつた。その意味は、われわれ劇團員と話すときも、稽古場に來られた皇室の方方と御話されるときも、いつも變はらずに普通であつたといふことです。堂堂として偉ぶらずに普通に振舞へる大きな方でした。」言葉は必ずしもこのままではないが、その話し方と言ひ、話すときの視線の先と言ひ、敬意を持つてをられる樣子であつた。その後、ロビーで山口氏と御話したが、「福田さんには、可愛がつてもらひました」と述懷してゐられた。

コメント
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