(承前)
ちなみに言へば、今このことを書いてゐる私の念頭には、近年「日本語」について論じてゐる言語學者、加賀野井秀一氏のことがある。『日本語の復權』『日本語は進化する』といふ書名を見て、私の氣になるのは「日本語」と「進化」といふ言葉であるが、それはともかく、この著者は國語への處方箋を提示しようとする意圖が強い。つまりは、情緒的で感傷的な言語を論理的にせよといふのがその趣旨であるが、全面的に反駁するつもりもないが、どうにも皮相である。言つてみれば、言葉の使ひ方の問題が、そのまま言葉の問題になつてしまつてゐるのである。
例を引く。
デリダのグルントは、やっぱりディフェランスですね。
わがセクションは、ワールドワイドなストラテジーをデベロップいたします。
あのゲーセンにいるロンゲのヤンキー、チョー、ウザイじゃん。
つまりはここには、テニヲハさえ整っていれば、どことなくそれらしい日本語となり、「詞」の部分に入った言葉が実際には一知半解のものであったとしても、いつのまにか分かったような気がしてしまうという大変な落とし穴があるわけだ。
(「『日本語ブーム』を超えて――論理的な日本語を構築するために」)
最初の三行については、意味など判らずとも良いであらう。單に現状を告發するために作つた例文であらうから。一つだけ説明すれば、「詞」である。「詞」とは日本語が中國語に出合つたとき、それを取入れるためにテニヲハ(これを「辭」と言ふ)の上にくる言葉である。
確かに、加賀野井氏が言ふやうに、「詞―辭」の構造が私たちの國語にはある。しかし、氏が擧げた例文が國語の問題であると見るのは、短絡にすぎる。福田恆存はそんな文章を書かないし、私もさう書いてゐないつもりだ。何よりも、御自身がさういふ文章を書くまいと心掛け、事實(あまり品のある文章ではないが)さうなつてゐないといふ事實が、氏の考へを見事に裏切つてゐる。
氏は、和辻哲郎の『日本語の特質』から、次のやうな文章を引用してゐるが、それを讀んでも和辻自身がさういふ文章を書いてゐないのであるから、それは使ふ主體の問題であることを證明してゐる。一應引用しておく。
日本語には理論的認識への強い性向は現はれてをらない。だから日本人がこの方面においてなした仕事は、日本語をもつて表現せられなかつた。そのことがまた日本語のこの方面における發達を沮害した。しかしこの方面の未發達は日本語が全體として發達の度の低いものであることを示すのではない。日本語は情意的體驗の表現において優れ、知的の分別において劣つてゐるのである。
(同右)
言葉の使ひ手に迫らない言語學のあり方といふのは、どうにもソシュール流なのかチョムスキー流なのかは分からないが、さういふ西歐流の言語學では、私たちの國語には迫れない。「研究」といふのは、どうしてかういふ形になるのか、分からない。科學的といふことへの誤解であらう。