(承前)
明治期の國語問題に話を戻す。
『「国語」という思想』によれば、改革派の中心人物であつた保科孝一の著作には、「すべて優秀なる国民の言語が、一般に強大な感化力を有するものであるから、共栄圏の盟主たる日本の言語が、当然その資格を具備してゐるので、これに対して圏内の民族に、不満や反対のあるべきはずがない」(二八七頁)といふ文章があると言ふ。改革派がきはめて帝國主義的な言語政策を推進したといふこの事實も、事態の複雜さを示してゐよう。
今日で言ふ改革派は、政府の政策にたいして批判的であり、ましてや「帝國主義」的な政策を推進するなどといふことはあり得ない。といふことは、「近代化」といふテーマは、各人の思想信條を超えた喫緊の課題としてあり、それが明治といふ時代にとつてどれほどの切實な問題であつたのかを物語つてゐるのである。
更に言へば、「國語」は文化の問題であると同時に、いやそれ以上にきはめて深刻な「政治」の、あるいは「思想」の問題になつてゐたといふことである。
かうした「國語」の「思想」を讀み解くことから學ぶものは多い。「正統假名遣ひを保守せよ」といふことを連呼するだけでは、今日の國語問題はきつと解決しまい。なぜならば、そこに「思想」問題があるからである。明治期の言語政策立案者(俗に言ふ「改革派」)が、進んで取り組んだ課題にたいして、私たちもまた何らかの具體案を提出する必要がある。が、保守派においての檢討は正直に言へばこれまで不十分であつたと言へる。
またさう言ふ指摘をここでしてゐる私にも、その問題を體系的に論ずる能力も資格もない。ただここではその斷片を「覺書」にしておく。それだけが出來ることの一切である。
1 標準語と方言の問題
2 言語學と國語學との今後のあり方
3 國家語としての歴史的假名遣ひの制定
かうした問題點の解決には、その前提として一人でも多くの人が日常で標準語を歴史的假名遣ひで書くといふことを求めたい。そしてその「活動」にたいして批判的な人が身近にゐれば、その意見に耳を傾けて聞くことが大切である。また、互ひの違ひを自覺して、その溝を明らかにし埋めてゆく努力を惜しまないことである。
「話せば分かる」などといふことを私は言ひたいのではない。正統假名遣ひを強制したり、それ以外を拒否したりすることは、「國語」が思想的に語られてゐる現在、問題を矮小化してゆくだけだらう。現代假名遣ひを日常的に使用してゐる人に、「おや、もしかしたら現代かなづかいっておかしいのか」とその使用を迷はせるだけで十分である。言葉遣ひに敏感になり、歴史性に氣附かせ、先に見た「ねじれ」を自覺させることが大事だからである。その意味では、高島俊男氏の一聯のエッセイ(『お言葉ですが・・・』文春文庫)などを讀ませることは有益である。また、最近萩野貞樹氏が、上梓した二册の本も絶好の書物である。それは、『旧かなづかひで書く日本語』(幻冬舍新書)と『舊漢字―書いて、覚えて、楽しめて』(文春新書)である。御手輕だが、侮れない。そして、かういふ書物が今日出版されるといふことに、正直驚いてゐる。日本語ブームもここまでくれば本物である。
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