言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語297

2008年10月16日 21時32分47秒 | 福田恆存

(承前)

『「国語」という思想』といふ書を讀み、私なりにそこで指摘された問題をまとめると、次のやうになる。

  統一國家を築き上げるためには標準語を早急に制定しなければならなかつたといふ政治的な理由があつたこと。

  近代化といふものが一〇〇%歐米化を意味する時代においては手本となる言語學が、話し言葉(音聲言語)である歐州語において發展したものであつたといふこと。

  植民地を抱へてその同化政策を進めてゆくには、その主體となる國家語として、「國語」を確立させなければならなかつたといふこと。

これら三つは、いづれも相互に關聯する問題でもあり、假名遣ひの新舊を單純に歴史性の否定肯定といふ色分けだけではとらへられないことを教へてくれる。このことは從來の歴史的假名遣ひ論者も指摘してきてゐないことであり、「その後の植民地主義」學がもたらした學問成果であるとは言へよう。

端的な例を擧げれば、植民地においてもしも歴史的假名遣ひを國家語として制定すれば、植民地の人人は歴史的假名遣ひを使用することになる。しかしながら、歴史を共有しない人人が「歴史的」假名遣ひを強制されるといふことには、本來保守派の國語學者は反撥しなければならないはずである。歴史的假名遣ひの理念を純化すれば、植民地においても現地の言葉を使ふべきだといふことになるからである。したがつて言語政策といふ觀點からすれば、保守派は歴史的假名遣ひでない假名遣ひを新たに作り出さなければならない。さう考へてみると、保守派の重鎭時枝誠記が、京城帝國大學の國語學の主任教授であつたといふことは、きはめて皮肉な出來事なのである。もちろん、「植民地政策」において、相手の國の文化を認めるといふことを徹底する必要はないといふ考へも十分にあり得る。といふのは、相手の文化を認める原理を「文化の保守」にするのなら、その原理を徹底すればそもそも植民地化自體を否定せざるを得ず、文化の保守といつても、所詮は植民地化の肯定の前提の上に立つた方便にすぎないと考へざるを得ないからである。したがつて、文化の保守といふ思想は、近代化の過程の前提ではなく、手段であるといふあり方を、國内に適應すれば、假名遣ひの歴史性の保持も方便であり、假名遣ひを新たなものにしても十分に可能であるといふ主張もすることが出來る。かうした歴史的假名遣ひ方便論ともいふべき主張は、從來の新假名論者からも出て來てゐないものであり、「その後の植民地主義」學以降の國語問題を考へる上で、重要な論點になるだらうと思はれる。

ただ、念を押す必要があるのは、私たちの假名遣ひの正統性が、さういふ近代學問の論理の綾にからめ取られる必要がないといふことである。現代學問に私たちの假名遣ひがどうあるべきかを左右する力は與へられてゐないからである。ただ、國語學といふものが大學の學問領域として存在する以上、「流行思想」にさらされ、喜んで學者は國語を弄ぶ。そしてそれが「研究」と稱して大手を振つて社會に認知されるのである。

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