言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語150

2007年04月15日 07時45分13秒 | 福田恆存

『文學界』の平成十五(2003)年九月號に丸谷氏が「ゴシップ的日本語論」を書いた。

なぜ、昭和天皇のことを言ひ出すところから丸谷氏がこの文章を書き始めたのかと言へば、近代化の過程で、政府の言語政策に行過ぎがあつたからといふことが言ひたいからである。それについては私も同意見である。しかし、そのことを今この時點で檢證するにあたつて、昭和天皇のことを擧げるといふのはいかがなものであらうか。いやこんな穩健な言ひ方ではなく、はつきりと不敬であると言つておく。

丸谷氏は、こんなことまで言ふ。

「昭和史は、昭和天皇の言語能力といふところから攻めてゆけば、かなりよく分かつてくる」。

 言語の問題を近代化の中心に置くといふことはもつともである。そして、その政策に過ちがあつたといふのも全く正しい。しかし、それを天皇の言語といふことで論じるといふのが狂氣の沙汰である。

よしんば近代化の問題を考へるにあたつて言語の問題を採上げるのであれば、戰後まもなくマッカーサーのところに昭和天皇がお訪ねになり、御自身の處遇を顧みずに責任についてだけ述べたといふ言葉こそが中心である。その御發言によつて、いかに日本が(丸谷氏のお好みの言葉で言へば、「日本文明」が)守られたのかといふことを、あへて隱蔽して一方的なゴシップを題材に昭和天皇の言語を問題にするといふのは、正氣とは思へない。

 昭和天皇の言葉によつて、その言語能力によつて、私たちの今日があるといふことを書かねば、單なる言ひがかりである。

 昭和天皇についての言ひがかりはその他にもあるが、これ以上は觸れない。あまり薦めはしないが、御關心がおありなら、圖書館で閲覽なされば良い。『裏聲で歌へ君が代』などといふ長篇(ダラダラ)小説を書いた作家の面目躍如たる不敬が連續してある。

 さて、本論の主題に關聯して取上げておきたいのは、次の文章である。

「現代日本文明の弱点は言語において現れてゐる。君主も、憲法も、代表的批評家も、言語面において水準が高いとは言ひがたい。民衆は、そこの所を漠然と感じ取ってゐて、ここがわれわれの弱点だなあ、ここが問題だなあと心の底で思つてゐるから、それで何度も何度も日本語ブームが起こるわけなんですね」。

 この中で言はれてゐる「代表的批評家」といふのは、小林秀雄のことである。小林の文章について丸谷氏は「うまくて齒切れがよくて、なんだか凄い! といふ感じがするけれども、しかし、何を言つてるのかわからない」と、今引用した文章のすぐ前で書いてゐる。そして、どうやら御自分は「何を言つてゐるのかはいちおう通じる」文章を書かうとして書いてゐるやうである。

 しかしながら、この文章の中の「民衆は、そこの所を漠然と感じ取ってゐて、ここがわれわれの弱点だなあ、ここが問題だなあと心の底で思つてゐる」など書いてゐるところがあるが、何を根據に言つてゐるのかさつぱりで、全く意味が通じない。小林秀雄を「啖呵を切るだけ」だと揶揄し、「彼の文章は飛躍が多く、語の指し示す概念は曖昧で、論理の進行はしばしば乱れがちである」(『桜もさよならも日本語』)と批判してゐる本人の文章がこのていたらくなのであるから笑止である。

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