言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

渡部晋太郎さんの新著『大学院つれづれ草』

2007年04月22日 13時13分11秒 | 告知

大学院つれづれ草 大学院つれづれ草
価格:¥ 3,000(税込)
発売日:2006-06
  先日、あの大著『國語國字の根本問題』の著者である渡部晉太郎さんから、新著の御寄贈を受けた。當方の事情で、御紹介が遲れてしまつたが、ここに紹介する。感想は、追つて記すことゝしたい。

  今囘も大部な書籍である。851頁といふのは、竝大抵の筆力ではない。氏の日ごろの研鑽と、強靱な意志の力とにまづは敬服する。事を成すにおいて、まづもつて必要な事柄である。

出版社/著者からの内容紹介
これから学問に志そうとする大学院生を念頭に置きつつ、具体的なアドバイスを交えながら、学問にまつわる様々なトピックについて縦横に論じたエッセイ集。
文部科学省により大学院重点政策が進められ、ロースクールなどの専門職大学院が次々と誕生する中、時代に左右されない研究者のあるべき姿を探求する。

内容(「MARC」データベースより)
大学院を取り巻く世の中の「流行」が如何様であろうとも、大学院の存在理由が学問研究という「不易」の部分にあることは今後とも変わることはない-。これから大学院で学ぼうとする人や大学院在学生を念頭に書き綴ったもの。

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言葉の救はれ――宿命の國語152

2007年04月22日 12時24分11秒 | 福田恆存

前囘引いたのは、『半日の客一夜の友』といふ山崎正和氏との對談集の一節である。氣の合ふお二人が對談百囘を記念して編まれた本で、前書も後書もないずゐぶん造作がお手軽な本である。ここら辺りのことを、丸谷氏流の推測で考へてみると、かう言へるだらう。

「木村尚三郎との鼎談も四十二囘分も入れての『對談百囘』であるし、看板に僞りありといふ気がしないでもない、これぢや木村氏に失禮であるな」。

そこで、「これは出版社の意向で出したもので、私たちの方から出してくれとは言つてゐませんよ」といふ姿勢を示したのではあるまいか。まあ下種の勘繰だが、丸谷先生の推測もこんな程度ではあるまいか。

もちろん、内容については興味深い分析もある。だが、御自分の作品がその「程度が悪い」近代日本文學には入つてゐない口ぶりにまづ驚いてしまふ。あるいは、「私にも程度の惡い自覚がある」といふのなら、それでよく作品を書き續けてゐられるものだと揶揄したくなる。

そもそも「程度」は「惡い」ものではなく「低い」ものであり、「質」は「低い」ものではなく「惡い」ものである。さういふ私たちの國語の作法と丸谷氏の用法が違ふのに驚いてしまふ。そんな程度の國語の常識も知らないで、「上流階級がないから近代日本文明は質が低いし、したがって近代日本文学は程度が悪い(笑)」などと言はれるのは、まさしく(笑)である。

日本文明の程度の低さを、一方では天皇のせいにし、一方では下層武士のせいにする。自分の都合の良い方向に結論をもつていくために、材料を適當に使ひ分けてゐるやうにしか私には見えない。ここでの文脈からすれば、どうやら氏は、三島を批判したかつただけのやうにも見える。それも故人である吉田健一の發言を使つて。三島も吉田も死者である。彼らからは絶對に反論はこない。それを良いことにこんな三島論や日本文明論を言つてもそれは卑怯といふものである。

それに、この本の中には、こんなことも書いてゐる。私は驚いた。それは昭和三十八(一九六三)年に丸谷氏が書いた「市民小説への意志」といふ自作に對するコメントである。

「あれは、昔書いた評論だから、いまの僕が責任をとる必要は、必ずしもないんだけれども」と言つてゐるのだ。

  四十年も經つてゐるのであるから、主張が變はることはあらう(もちろん、四十年で變はつてしまふ言説をあまり信用したくないが)。しかし、責任は取らなければならない。福田はかつて、「自分の發言にとらはれる必要はないが、責任はとらなければならない」と書いた。今、出典を探したが見つからない。正確な表現ではないが、意は盡されてゐると思ふ。一見似てゐるが、この徑庭は思ひの外大きい。

言つたり書いたりした本人が責任を取らないといふのでは、自分の言論に誰が責任を取るといふのだ。丸谷氏は、『笹まくら』で河出文化賞、『年の殘り』で芥川賞、『たつた一人の反亂』で谷崎潤一郎賞、『後鳥羽院』で讀賣文學賞、『忠臣蔵とは何か』で野間文藝賞、『樹影譚』で川端康成賞、『新々百人一首』で大佛次郎賞そして最新作『輝く日の宮』で泉鏡花文學賞を取つた。それはその本人が書いたものでもらつたものであらう。書くとはさういふことである。賞はもらふが、責任は取らないなどといふことはあつてはならないのである。

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