言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語149

2007年04月12日 11時11分44秒 | 福田恆存

  丸谷才一氏は、最後にこんな文章を書いて、問題のエッセイを終へる。ここは該當部分を全文引用する。
「いま日本経済はあやうく、政治はひどいことになっている。一方、日本語に対する関心がすこぶる高い。この二つの現象は別々のことのように受け取られているけれど、実は意外に密接な関連があるはずだ。というのは、誰も彼もが国を憂えているが、しかし何をどう考えていいか、わからない。そこで、これは考えるための道具である日本語の性能が低いのではないかという不安が生じたのだ。みんなの心の底で、漠然と」。
「日本語の性能」などといふ言葉遣ひをして平氣でゐられるのだから、もうどうしやうもない。これについては觸れない。
  次。
「日本語の性能」が他の國の言語に比して「低い」のなら、日本語ブームは起きない。それは、日本サッカーが敗戰續きならサッカーブームは起きない、阪神が弱いなら道頓堀に飛込む阪神ファンがゐない、強い關取がゐなければ相撲人氣は起きない、のと同じことである。
日本語ブームは日本語の性能の低さなどとは斷じて關係がない。日本語ブームの内實は「自分たちが話したり書いたりしてゐる日本語の誤りを正さう」といふことにあるのであつて、「日本語の性能が低い」ことから生まれた「不安」なのではない。そんなことなど誰も考へてもゐまい。「みんなの心の底で、漠然と」も。
  もしゐるとすれば、書くにこと缺いて筆を滑らした(本氣で書いてゐるとすれば度し難い)丸谷才一氏のみである。丸谷氏は、どうかしてゐる。言語の「性能」などといふ言ひ方が、そもそも成立しない。その價値判斷自體が明文化できないし、言語(ラング)は言葉(パロール)を通じて現れるものであつて、性能といふものが假にあるとしても、それは各個人のパロールに問題があるといふことは指摘できても、ラングの性能が低い高いといふことは決して言へないのである。
  それが證據に、丸谷才一氏自身は自分のこの文章(パロール)を、きつと性能が高いと思つてゐるはずである。自分自身の言語能力に「不安」を感じてゐるそのほかの國民一人一人のパロールの性能が低いことを指してラングの問題としてゐるのである。もし日本語のラングが性能が低いのなら、丸谷氏のパロールも低いといふことになつてしまふ。しかし、そんなことは丸谷氏はまつたく考へたこともないであらう。氏は、自分自身の文章に相當に自信を持つてゐるからである。
 本欄で丸谷氏の文章を論つてゐたら、またぞろ今度は長い文章で、『文學界』に書いてゐた。九月號に載つた文章でも「ゴシップ的日本語論」といふまたまた不見識なタイトルをお附けになつてゐる。
 ゴシップの第一に擧げられてゐるのは、昭和天皇のことである。
昭和天皇に對する言語教育がうまくなかつたから「その結果、昭和天皇は、何を語つても言葉が足りないし、使ふ用語は適切を欠き、語尾がはつきりしなくて、論旨の方向が不明なことを述べる方になつた」などと書くのだ。

コメント (2)
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