言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語122

2006年12月13日 21時00分53秒 | 福田恆存

  現在のヨーロッパに、古代ギリシャ・ローマの政治的、經濟的、文化的影響がないといふことについては次のやうなことも言へる。

今日のヨーロッパの言語の原型となる「アルファベット」文字を發明したのは、シナイ半島に住んでゐたセム族であるが、その影響下に今日の西洋社會がすつぽりと覆はれてゐると考へるべきなのであらうか。そんなことはあり得ない。アルファベット文字は文明となり、その發明者はいつしか忘れられ、記録といふ言語活動の基本的な技術として今日のヨーロッパに定着してゐる(なほ、このシナイ文字は、フェニキア人によつて二十二字の子音よりなるアルファベットとなり、ギリシャに傳はり、さらにローマ字が生まれて今日に至つてゐる。また、東方に傳はつては、突厥文字、ゾグド文字のもととなり、モンゴル文字や滿洲文字などにもつながつてゐる)。

  ところが、かうした「常識」に對しても、石川氏はかう反論してくるだらう。「西洋と中國を宗主國とする東アジアとは事情が異なる」と。

「文化相対主義者達がどのような説明をしようとも、アジアとりわけ東アジアといふ言葉でくくられる文明、文化と、それとは異質なヨーロッパという言葉でくくられる文明、文化がある。そのアジアとヨーロッパとの違いはまぎれもなく、秦始皇帝が統一し、制定した篆書体という政治文字が決定づけたのである。」

                                        『二重言語』五十二頁

 つまり、基本的に聲中心言語の西洋と、書字中心言語の東アジアとでは、「文字」の影響力が決定的に違ふのだと言ひたいのだらう(ちなみに、この引用部分を見ても、石川氏が文明と文化との違ひを深く考へてゐないといふことが分る)。

もちろん、石川氏の嚴密な定義によれば、肉聲に對應するのは正確には文字ではなく「筆蝕」であるといふ。活字でもなく、單なる書字の跡形でもなく、筆觸(タッチ)と跡形(痕跡)とをあはせた石川氏の造語「筆蝕」が對應するといふのである。このことはさすが書家の文字論であり、十分に魅力的である。が、魅力ある表現が必ずしも正しいものではないことは、改めて説明を要しまい。文字の文明を、筆蝕の文明と言ひ換へたところで、所詮その實質的な性格に變化が起きるわけではない。たとへば、秦の時代に生まれた篆書體が後發の國家を永遠に縛つけるといふことにはならないのである。

  このことは、ヨーロッパの場合で考へれば分りやすい。肉聲の文明であるヨーロッパでは、ロマン語の影響下にフランス語があり今日のフランスは文化的な主體性を獲得し得てゐない、あるいは英語の影響下に米語があるのだから米國は英國に生き方の規範を求めてゐると言へるのであらうか。そんなことは、何も文化相對主義の立場に立たずとも、ナンセンスであることは自明である。

  文字は、確かに文明の基層にある。ましてや「書字中心言語」圈の東アジアにおいて、漢字は重要な意味を擔つてゐる。しかし、文字をあまりに重視しすぎ、日本の文化を中國の文化の影響といふ面で固定的に一方的にとらへることは何度も念を押すが、誤りである。

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