言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

映畫「硫黄島からの手紙」を觀て

2006年12月11日 17時05分32秒 | 日記・エッセイ・コラム

  クリント・イーストウッドの硫黄島2部作をいづれも觀た。前作の「父親たちの星條旗」の感想は、ここでは書かない。週刊新潮だつたか、福田和也氏が、その映畫としての出來を絶讚してゐたが、私はそれを讀んでなるほどと思つた。ただ、率直に言つてあまり引きつけられなかつた。

  そして、今囘の「硫黄島からの手紙」である。先日も栗林中將についての本を書評したが、栗林といふ人物の存在が、戰後60年を經てやうやく人人に認知されるやうになつて來た。

  映畫としての出來を云云するほどの才も知識もないが、良い映畫であつた。「毎日新聞」の映畫評にかう書いてあつた。

「日本ではこうは描けないだろう。武力での紛争解決を拒否しているから、軍人を手放しでたたえるわけにはいかない。そんな制約に縛られないイーストウッド監督は、否定すべき戦争と軍人としての能力、人格を明快に区別する。技術や資金の問題ではなくその意味で、日本では作れない戦争映画である。2時間21分。」

  日本ではかうは描けない理由が、「武力での紛爭解決を拒否しているから」といふのは、いかにも「毎日新聞」である。私も「日本ではこうは描けないだろう」と思ふが、その理由は、「戰後の私たちが栗林といふ人物を尊敬してゐないから(もつと言へば知らないから)」である。戰爭も平和も現實の兩面である。平和が理想だが、萬已むを得ず現實には戰爭を起こしてしまふと二分して考へるのが知性であり、教養であり、常識であると思つてゐるから、戰爭を忌み嫌ふだけで終はつてしまふ。したがつて、軍人を取上げるなんてもつてのほか。硫黄島? そんなものに興味を持つ必要なんてないよ。戰爭の悲慘さでも傳へて、二度と戰爭はしないと誓ふ人物を取上げた方が、役に立つよ、さう考へるのが、戰後民主主義である。

  まあ、今日は野暮なことは書くまい。

  「日本ではこうは描けないだろう」――この感想は私も同感であつた。栗林といふ人物は紛れもなく日本人であるが、その指揮官ぶりを日本人が描けない。事實、描いて來なかつた。それどころか、クリント・イーストウッドが描くまで、その人物のことを知らなかつた。軍人を貶しめ、政治家を貶しめ、父親を貶しめ續けた私たちには、外國人の映畫俳優か、海外へと旅立つたスポーツ選手か、テレビのアイドルぐらゐしか、夢を語れる人物を持たない。そんな私たちの精神状況「ではこうは描けないだろう」。

   好戰映畫でも反戰映畫でもない。人間を描くといふことの作法を、私たちは今持たないのである。戰爭といふ「現實」は、人間といふものの正體を最も赤裸裸に描く場所である。栗林といふ人物が美しいのは、戰場といふ場所にあつても、變はらず部下を愛し、家族を愛しみ、國への忠誠を守り續けたからである。ああいふ人は、平時でも美しいのである。

   といふことは、どういふことか。平時でも美しくない人間は、戰場で美しくなれるはずはない。

  安倍總理大臣は、「美しい國」を標榜してゐるが、それは私たちの國が美しくないからである。平時で美しくない私たちが、それではいつ美しくなれるのか。

  この映畫を觀ながら、そんなことを考へた。多くの人に觀てもらひたい映畫である。

コメント
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