言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

にもかかはらず 1

2006年10月05日 12時37分54秒 | 福田恆存

 今、私の書いた「松原正先生への註」に贊否が屆いてゐる。その多くは「否」であるが、それを讀んで實に收穫が多い。それで、コメントの連續といふ形ではなく、表に出して、論爭を續けて行く事にする。

 以下は、まづは「梅沢さん」といふ方から戴いたコメントへの反論である。別に、木村さんが御自身のブログでもコメントをされてゐるものもあるので、追追觸れてゆくことにする。御恥づかしい話だが、假名遣ひを間違へたまま引用されてしまつた。不覺と言へば不覺だが、それに對しては訂正も求めない。慌てて書いた結果であり、それもこれも私の責任である。、

「梅沢さん」へ
 御返事有難うございます。
 論旨は依然交はる事がないやうですが、貴兄が續けてくれるかぎりしたいと思ひます。
「私怨から人を批判した事がない」といふのは、松原先生の福田恆存評なのかもしれませんが、私は「私怨」であつても構はないと思ひます。「ない」と斷言出來るほど、強い自我を持てるのかどうかむしろ疑問です。
 その點で、松原先生の道徳的努力の不足を非難する時に(私はそれを言つてゐるのではありませんが)、それを論じる側に道徳的完璧さ(貴兄の言ふ「立派さ」)も必要ないと思ひます。そもそも私は松原先生も福田恆存も活字でしか知らないのですから。
 以上が、まづ前提です。
 その上で、福田恆存は「ほされた」でせうか。著作集が二囘、全集が一囘、いづれも大出版社から出される状況を「ほされた」といふのは、説得力がありません。
 なほ、松原先生は大學教授といふ安定した職をお持ちでした。それにたいして福田恆存は、晩年京都産業大學の教授をされてゐたものの、その地位はたへず一介の文筆家でありました。さらに劇團經營といふ、生活的不安を買つて出るやうな人生でした。その上で「ほされる」ことでもあれば死活問題になつたでせうから、「ほされた」とは言へないでせう。どうでも良いことですが、事實を確認します。
  もちろん、福田恆存は言論において妥協したわけではありません。こびへつらつたわけでもないでせう。それは一致した見解だと思ひます。

  福田恆存が松原先生を評して「私は追ひ越された」と書きましたが、「追ひ越したこと」が正しいことかどうかは判斷してゐません。ただ「追ひ越した」といふ事實を指摘しただけです。が、私にはそこに福田恆存と松原先生との違ひを感じたのです。

  もう一度書きます。
「人は知的誠實のみに生きるにあらず」です。何だか照れ臭いですが、「人は愛によつて生きる」のです。松原先生も、御弟子の方には、知的誠實さを追及するよりは、愛を先立てて許してゐるやうでした。他の知識人に對してあれほど嚴しく批判する方であるのにです。
  愛と知的誠實とは別次元ですが、別次元であるからこそ、「知的誠實のみに生きるにあらず」でせう。知識人は社會的な役割として知的誠實を求められてゐる、彼らに對して知的誠實を求めるのは當然です。
  しかし、知識人でもない人人にそれを言つて溜飮を下げる(あるいはそれを聞いて溜飮を下げてゐる)のは、見てゐて氣持ちよくありません。
  もつと、理想に向つて語るべきです。ある人から言はれました。松原先生の愛讀者です。その人も、「松原先生は、何のために書いてゐるのか」と。何を目指してゐるのか、と。知的誠實が本質的な理想なのでせうか。福田恆存にはあつた理想が、どうにも見えません。松原先生の言論には、なにか空しさを感じるのは、さういふこともあるかと思ひます。

  この論爭、どなたかが相手にしてくださる限り續けたいと思ひます。

コメント (16)
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