言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語80

2006年06月01日 22時11分00秒 | 福田恆存

 石川九楊氏の著作のタイトルは『二重言語国家・日本』(平成十一年・NHK出版)である。このタイトルが象徴するやうに、氏は日本語を「漢字」と「假名」との二重性で捉へる。そのことに異論はない。問題は、その二重性の中身である。氏は漢字が主體で、假名はそれに從屬してゐると考へるのである。その具體的なことについては、別のところでかう記してゐる。

  平仮名(女手)においては、漢文体や漢詩が得意とする極度に政治的な表現については漢字に委ね、政治や思想を回避した領域において文と文体と表現とをつくり上げた。

    「本居宣長から疑え」『中央公論』平成十三年二月號

 確かに、和語(石川氏は「倭語」と故意に侮蔑語を使ふが、それは不遜ではないか)の造語能力は現在の私たちにはない。「天皇」といふ言葉はスメラミコトとは讀むが、萬葉時代は、他の漢字で讀みを寫してゐたに過ぎない。皇帝といふ漢語を參考にして作られた「天皇」といふ表記は、確かに漢字の造語能力に依つてゐる。あるいは、明治期の新漢語についても、その曖昧さは、つとに福田恆存がしてゐるところであるが、それでも「鐵道」「電球」「新聞」「逓信」などは漢語の力なしには生まれることもなかつた。

しかし、このことをしも中国語に從屬してゐると考へるとすれば、それはイデオロギーである。文字は文字であつて、支配―被支配の關係を作り出すのではない。そんな亂暴な理屈が通るなら、アメリカはイギリスの屬國といふことになる。漢字を藉りながらも、私たちの言葉は生きてゐる、さう考へるのが常識である。わざわざ「二重言語國家」などとコケオドシをする必要はない。自説を立てて脂(やに)さがるのが知識人の性癖であるのはいつものことであるが、こと「國語」に關してはやめにして貰ひたい。

私たちの國語は生きてゐる。例へば、「枯る」「借る」「涸る」「刈る」「狩る」「離る」はいづれも音は「カル」である。漢字は當て字に過ぎない。その意味は、少し考へれば明らかだらうが、「何かから遠ざかる」といふことである。植物について言へば、命が離れていくことを「枯る」と言ふのであるし、人である場合には「離る」である。ついでながら、「憧(あこが)れる」は古くは「あくがる」であつた。「あ」は「ある」であり、「く」は「ここ」「そこ」「どこ」の語尾の「こ」の古い形で、場所を意味する言葉である。つまり「あくがる」とは、ある場所から何かが離れていくといふ意味で、それは精神(思ひ)がどこかへ離れて行くことを意味した。だから、かうした状況が強まれば、現實がなほざりにしてしまひ逃避になつてしまふといふことにもなる。このやうに、一つの「かる」といふ和語は、多くの派生語を生み出す力を本來持つてゐる。和語にも造語能力がないわけではない。ただ、これは漢語が入つてきて失はれてしまつたのである。計算機が普及して算盤が使へなくなるのと同じである。

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