言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語89

2006年06月26日 22時14分24秒 | 福田恆存

さて、話をもどさう。國語は、私たちの言葉といふ意味であつて、帝國主義國家が他國を抑壓するために使ふ言葉といふ意味でも、國内に住む外國人を無言のうちに排斥するやうな内むきに閉ぢた言葉といふ意味でもない。

愛着と哀愁とがおのづからこめられた母語としての言葉である。いささか情緒的な表現であるが、國語といふ響きには、さういふ意味があるのだ。

柳田國男が言ふやうに國語といふ名稱も近代國家が作りだしたものである。しかし、近代の國民國家(ネイションステイト)を作りださなければ列強にやられてしまふといふ状況のなかで絞りだすやうにして産み落とされたこの言葉には、愛着と哀愁がこめられてゐる。

國語といふ言葉は、それ自身新らしい漢語である。是に當る語は、古い日本語の中には無いやうに思ふ。

柳田國男「國語の成長といふこと」『國語の將來』昭和十一年

もちろん、植民地の皇民化教育のなかで「國語」といふ名稱は、抑壓性をもつてゐた。したがつて情緒的な愛着を持つて「國語」といふ名稱の優位なるを言つても意味はない。ありていに言へば、朝鮮や台灣に人々が、その言葉を嫌惡するのは分かる。しかし、何度も言ふやうに、それは日本語と言ひ換へても變はるものではない。いやそれどころか、今日であつても、それを日本語と言ひ換へても、アイヌの人々の言葉や在日外國人が話す言葉にたいして抑壓的であるといふ「支配―被支配」の構圖は變はらない。

しかし、それを日本語といふあたかも中和されたかのやうな名稱を用ゐて事實を隱蔽するよりも、國語といふ言葉を用ゐて、國家の公用語=國家語がもつ必要惡を明確に示したはうが良いであらう。

かういふ次元で日本語と國語といふ呼稱について考へれば、國語を日本語と改稱するだけで、「自立と獨立の意識」を囘復できるかのやうに錯覺してゐる言(石川九楊氏)は、見當違ひもはなはだしいと言はざるをえない。それこそが「甘え」であつて、國家語がもつ惡に目をむけない「自立と獨立の意識」を缺いたものである。

  では、なぜ「日本語」と言ふべきだといふ人々が多いのか。あるいは國語と言ふことを避けて、日本語と言つて事足りるとする意識はどこから生じるのか。このことこそが問題なのである。

 ここで、改めて「國語」の多義性についてまとめておく。

1 日本語の別稱。明治維新期に近代國家が成立する假定で、「國民」としての意識をもたせるために作られた。「日本」といふ名稱も同じく近代國家が成立する假定で生まれたもので、「大日本國憲法」といふ名稱を見れば、そのことが分かる

2 母國語といふ意味。意識せずに私たちが話す言葉といふ程度の理解で使はれる。しかしながら、アメリカ人は母國語のことを「English」と言ひ、國語とは言はない。私たちが何氣なく「國語」と言ふのも、普遍的なことではないやうだ。

3 明治三十三年の「改正小學校令施行規則」のなかで「義務教育における教科名」として使はれて以來、「國語」は教科名としても使はれてゐる。

4 それぞれの國家における公用語として使はれてゐる。その意味は、世界の緒言語のなかの一つといふ意味ではなく、あくまでも國家語としての性質を持つてゐるのである。したがつてアイヌ語は世界の緒言語の一つではあるが、「國語」ではない。

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