國家は、現在の政府がなくなつても存續しうるものであると考へなければならない。國家と言ふものを考へ出した、革命が起きてもフランスが繼續したのを見ればそれは明らかである。
また、自己は國民であると同時に、個人としても存在してゐるのである。政府が無くなつたら國民がなくなると假定すれば、戰爭に負けたとき、國民はゐなくなるといふ理屈になる。しかし、國家は政府とは關係なく存在するものである。
どうして、こんな理屈を言ふかと言へば、國家と政府と、個人と國民と、多くの人が同じものであると思つてゐるからである。そして、それらを混同することによつて、いろいろな誤解や混亂が生じてゐるのに氣づいてゐないからである。
端的な例が、國語問題である。
國語が現在生きてゐる人民によつて勝手に變へられる、このことに何の疑問を感じない人が多い。「言葉は變はる」などとうそぶいて、若者に迎合する物分かりの良い老人達がゐる。金田一京助・春彦氏などがその典型である。しかし、當の國語はさういふ「老人達」のものではない。國語學者であらうが、言語學者であらうが、あるいは物分かりの良い好好爺であらうが、國語は、國家のものであり、國民のものである。個人のものでは斷じてない。個人の使ひ方が目茶苦茶であるのは、この際問はぬとしても、だからと言つて國語は亂れて良いといふことにはならない。
國語は垂直的歴史的集團的自己が、水平的現在的個人的自己と出會ふために必要な手がかりなのである。昔の人がかう話し、かう書いてゐたといふことを現在に生きる個人が知ることによつてはじめて、個人的自己は集團的自己とつながることができるのである。
その意味では、先に引用した山崎氏の「天皇の神事」と「特定の歴史物語」といふものに何らのつながりを認ないといふ主張も、まつたく理解不能な言説である。
氏は、外國に行つてこの種の發言をしてゐるのであらうか。もし、こんな發言をしたら、知識人としてまともな相手として見られないであらう。その意味でも、日本だけがまともな國家ではないと見る山崎氏の主張は「日本は國家ではない」といふことと同義である。
ただ、山崎氏は、かつて「柔らかい個人主義」をドイツで説明した折に、同席した日本研究者から皮肉を言はれたことがある。
「柔らかい個人主義」や「硬い個人主義」という二つの言葉は山崎さんの感情の入ったユニークな発想だと思いますが、それによって歴史を解釈するのはきわめて大胆な試みであると感じています。
また、別の研究者からは、ずばり言はれてゐる。
歴史的に見れば、この硬い個人主義あるいはエゴイズムが徐々に解体に向かう傾向もあれば、逆に強化されてゆく方向もあるわけです。ドイツでは自己実現というか、自己の趣味と関心の世界に埋没し、政治に対してあきらめと無関心のムードがただよっており、そういう意味では「柔らかい個人主義」にも問題があるわけです。
(いづれも「季刊アステイオン」一九九五年春号)