言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語61

2006年03月14日 19時53分06秒 | 福田恆存

國家は、現在の政府がなくなつても存續しうるものであると考へなければならない。國家と言ふものを考へ出した、革命が起きてもフランスが繼續したのを見ればそれは明らかである。

また、自己は國民であると同時に、個人としても存在してゐるのである。政府が無くなつたら國民がなくなると假定すれば、戰爭に負けたとき、國民はゐなくなるといふ理屈になる。しかし、國家は政府とは關係なく存在するものである。

どうして、こんな理屈を言ふかと言へば、國家と政府と、個人と國民と、多くの人が同じものであると思つてゐるからである。そして、それらを混同することによつて、いろいろな誤解や混亂が生じてゐるのに氣づいてゐないからである。

端的な例が、國語問題である。

國語が現在生きてゐる人民によつて勝手に變へられる、このことに何の疑問を感じない人が多い。「言葉は變はる」などとうそぶいて、若者に迎合する物分かりの良い老人達がゐる。金田一京助・春彦氏などがその典型である。しかし、當の國語はさういふ「老人達」のものではない。國語學者であらうが、言語學者であらうが、あるいは物分かりの良い好好爺であらうが、國語は、國家のものであり、國民のものである。個人のものでは斷じてない。個人の使ひ方が目茶苦茶であるのは、この際問はぬとしても、だからと言つて國語は亂れて良いといふことにはならない。

國語は垂直的歴史的集團的自己が、水平的現在的個人的自己と出會ふために必要な手がかりなのである。昔の人がかう話し、かう書いてゐたといふことを現在に生きる個人が知ることによつてはじめて、個人的自己は集團的自己とつながることができるのである。

その意味では、先に引用した山崎氏の「天皇の神事」と「特定の歴史物語」といふものに何らのつながりを認ないといふ主張も、まつたく理解不能な言説である。

氏は、外國に行つてこの種の發言をしてゐるのであらうか。もし、こんな發言をしたら、知識人としてまともな相手として見られないであらう。その意味でも、日本だけがまともな國家ではないと見る山崎氏の主張は「日本は國家ではない」といふことと同義である。

ただ、山崎氏は、かつて「柔らかい個人主義」をドイツで説明した折に、同席した日本研究者から皮肉を言はれたことがある。

「柔らかい個人主義」や「硬い個人主義」という二つの言葉は山崎さんの感情の入ったユニークな発想だと思いますが、それによって歴史を解釈するのはきわめて大胆な試みであると感じています。

また、別の研究者からは、ずばり言はれてゐる。

 歴史的に見れば、この硬い個人主義あるいはエゴイズムが徐々に解体に向かう傾向もあれば、逆に強化されてゆく方向もあるわけです。ドイツでは自己実現というか、自己の趣味と関心の世界に埋没し、政治に対してあきらめと無関心のムードがただよっており、そういう意味では「柔らかい個人主義」にも問題があるわけです。

(いづれも「季刊アステイオン」一九九五年春号)

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言葉の救はれ――宿命の國語60

2006年03月09日 19時03分36秒 | 福田恆存

ちなみに言へば、私たちの國語では、邪(よこしま)、横柄、横領、横着など、「よこ」といふ言葉には、良い意味をあたへられてゐない。つまり、横に廣がることをむしろ惡しきこととして私たちの先祖は考へてゐたのである。また不思議なことには、十九世紀の西洋の哲學者キルケゴールは『現代の批判』のなかで、現代を「情熱のない時代であり、束の間の感激にぱつと燃えあがつても、やがて小賢しく無感動の状態におさまつてしまふといつた時代である」としたうへで、現代の問題を「水平化」と捉へるのである。そして「善良な人ならだれでも水平化の遣る瀬なさに泣きだしたくなる瞬間をもつことであらう」と警戒してゐる。「水平化」とは、文字どほり「横」への廣がりである。それが現代の問題だとする考へてゐるのである。

さてさうであれば、今日のやうな社會状況において、横的な人間相互の関係を建直すことのまへに、縱的な關係を考へるといふのが正統であらう。したがつて、繰り返しになるが、次のやうな山崎正和氏の發言は、斷乎否定しなければならない。

現代の課題は、社会を構成する集団や組織の多様性を認め、それぞれにふさわしい役割と内容を求めることだろう。国家が文化的共同体の一面を残すのは当然だが、戒めるべきは、それを国家の別の側面、法と制度によって強制することであろう。天皇が国民統合の象徴であり、それが神事にたずさわれることは、アメリカ大統領が聖書に宣誓することと同じく、認められてよい。だが、特定の歴史物語を国家の権威で検定し、教室の「強制された聴衆」に教えることは、再検討されるべき時期だろう。たとえ特定の歴史解釈を国民の大多数が信じているとしても、それを学校制度によって正統化するのは別の問題なのである。

山崎正和「多様化社会の国家像」

ここには、縱的な精神の育成といふことは微塵もない。個へとひたすら分解してゆく、恐ろしい人間像が暗示されてゐる。

縱的な精神の育成――そんなものは、個人でやることだとの思ひが山崎氏にはあるのだらう。しかし、それなら國家は何をすべきだといふか。神のゐない國である日本において、歴史といふかろうじて縱のつながりを持たせる契機となるものを遠ざけるといふことが、國家のすべきことであるとは思へない。どうやら山崎氏は、「歴史教育をしない」といふことも立派な「特定の歴史解釋」であるといふことに氣づいてゐないやうだ。

また、アメリカで許されてゐるから日本でも良いといふ發想が見當違ひであるし、検定と国定の違ひも正確に考へてゐるかどうか曖昧である。また、強制といふことの内容も恣意的である。何より、國家と政府とを同じものであると考へてゐるやうで、知的怠惰の感は否めない。宗敎心を育てず神を認ない國において、國家までも否定することが、どういふ問題の解決に役立つのか、全く不明である。

福田恆存はかう記してゐる。

  國家は造り物であるが、一たび造られた以上、それは一個の生き物である。國家はあらゆる個人の出生以前に既に存在し、生き動いてゐる。それは今生きてゐる個人を集合する一時代の共同體であると同時に、過去に支へられた歴史的共同體でもある。よく「國を相手どつて訴訟を起す」と言はれるが、法的にはどう解釋できようと、國家と政府とは次元を異にした別個のものである。その兩者を混同するところから現代の國家意識の混濁が生じてゐるやうに思はれる。

福田恆存企畫監修『國家意識なき日本人』「まへがき」

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言葉の救はれ――宿命の國語59

2006年03月07日 20時43分44秒 | 福田恆存

福田の論は、ここから「防衞は一種の控へ壁であり、國家といふフィクションを維持するためのフィクションである」と續き、森嶋通夫氏との根本的な違ひを「人間論」として提示していくが、それについて論評する必要はない。なぜなら、森嶋氏の論と福田の論と、どちらが正しいかは、この論文が書かれた昭和五十四年からこれまでの二十年の時の流れが、言葉にする以上に明瞭に證明してゐるからである。

ところで、福田恆存の「人間論」の精髓は『人間・この劇的なるもの』に示されてゐる。昭和三十一年福田四十五歳の時の作品である。

その作品の最後の文章は、「生はかならず死によつてのみ正當化される。個人は、全體を、それが自己を滅ぼすものであるがゆゑに認めなければならない。それが劇といふものだ。そして、それが人間の生きかたなのである。人間はつねにさういふふうに生きてきたし、今後もさういふふうに生きつづけるであらう」となつてゐる。

私もまたさう思ふ。さてさうであれば、個人にとつて、國家が必要である。それは、「生きる」ためである。そして同じやうに、「生きる」ためには、抽象的な言葉ではなく國語が必要なのである。譯の分からない「オト」を發しても通じないやうに、國語といふ全體が、個人の「オト」にすぎない言葉を否定することによつて、國語の美しさも、文體の魅力も出てくるのである。

個人がいくら柔らかくならうと、國家は必要なのである。いや、柔らかくなればいよいよ必要性が高まるとさへ言へるかもしれない。あるいは、國家は必要ないなどといふ言説がはびこると、かへつて個人は硬くならうとするのかもしれない。

いづれにせよ、個人が柔らかくなれば、國家も役割を終へていくと考へる山崎正和氏には、「個人は、全體を、自己を滅ぼすものであるがゆゑに認なければならない」といふことは分からない。山崎氏が、個人を活かすために設定する、その否定要因として認めるものは、せいぜい「他者」でしかない。他者の目に映る私によつて、私の自我を微調整する、といふのが、山崎氏の人間論である。

 自我が芝居の役であるとすれば、それが成立するのにまづ舞台が必要であるのは当然だらうし、いひかへれば、自我の成立に先立ってまづ他人との関係がなければならないのは、いふまでもなからう。

山崎正和「演技する精神」

しかし、芝居の役割として自己と他者とを考へるのであれば、自己と他者との役割を決めた劇作家の視點が必要である。それぞれに配役を與へた絶對者があるからこそ、舞臺のうへでの關係が生まれるのであらう。「まづ他人との関係がなければならない」といふのでは、人間觀察が足りない。あるいは福田恆存が言ふやうに「テーマだけが絶對者」であり、それにすべての役者も美術も道具係も演出家も作家も奉仕すべきとした方が正鵠を得てゐると言へよう。

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言葉の救はれ――宿命の國語58

2006年03月05日 18時44分44秒 | 福田恆存

福田恆存の次のやうな指摘は重く受け止めたい。

人格が假設なら、國家も國民も當然假設であり、フィクション(假定・作り物)である。近頃は浮薄な東西文化比較論が横行し、日本人がどういふ人間であるか、或は日本の國がどういふ國であるかといふ類ひのお國自慢に打ち興ずる餘り羞恥心といふ折角の日本的美徳を臺なしにしてゐる手合ひが多くなつたが、自分がどういふ人間かといふ説明は自分よりも他人に任せておけばよく、吾々は日本人や日本といふ國がどういふ特性を持つてゐるかを論ふ暇に、世界が國家とか、人間とかいふものをどう考へてゐるかについて、十分、思ひを凝らすにしくはない。

「防衞論の進め方についての疑問」

最晩年、福田恆存は「これからの日本に必要なのは、もはや日本人論ではなく、人間論である。その仕事をするのが哲學だ」と語つてゐたと、中村保男氏は『福田恆存語録 日本への遺言』の文庫本あとがきで記してゐる。「哲學」などといふ新漢語で、福田恆存が御自分の考へを語つたかどうか私はいぶかしむが、必要なのは「人間論」であるとは、今引用した「國家とか、人間とかいふものをどう考へ」るかといふことの大切さを述べたことと一致してゐる。

今、引用した文章につづけて、かう福田は記す。

  (世界が國家や人間といふものをどういふふうに考へてゐるのかを・挿入前田)大ざつぱに言へば一般に西洋では、自分も人間も放つておけばどうにも手に負へない代物であり、てんでんばらばらな個人の慾望を適度に抑へ、それぞれの衝突から生ずる混亂を何とか纏めて行くためには國家の枠が必要であり、その國家の統一のためにはガヴァン(統治、支配)するガヴァメント(統治者、支配者)が必要であり、そのガヴァンする者の慾望とガヴァンされる者の慾望との衝突を規制するためには法が必要であると考へる。だが、一般の日本人は、自分の子どもが戰爭に驅り立てられ、殺されるのが厭だからと言つて、戰爭に反對し、軍隊に反撥し、徴兵制度を否定する。が、これは「母親」の感情である。その點は「父親」でも同じであらう、が、「父親」は論理の筋道を立てる。國家といふフィクションを成り立たせるためには子供が戰場に驅り立てられるも止むを得ないと考へ、そのための制度もまたフィクションとして認める。が、彼にも感情はある、自分の子供だけは徴兵されないやうに小細工するかも知れぬ。私はそれもまた可と考へる。「父親」の人格の中に國民としての假面と親としての假面と二つがあり、一人でその二役を演じ分けてゐるだけの事である。そして、その假面の使ひ分けを一つの完成した統一體として成し得るものが人格なのである。「私たちはしつかりしてゐない」といふ自覺が、「私たち」をしつかりさせてくれる別次元のフィクションとしての國家や防衞を要請するのである。要するに人格も法も國家も、すべてはフィクションなのであり、迫(せ)り持ち控へ壁などの備へによつて、その崩壞を防ぎ、努めてその維持を工夫しなければならぬものなのである。

「防衞論の進め方についての疑問」

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小林秀雄の見た福田恆存の「孤獨」

2006年03月04日 21時39分41秒 | 福田恆存

小林秀雄の言より。

「あの人(註 正宗白鳥)の文章は、アランなんかの文章とたいへん似たところがあるよ。だけれどもアランというのは芸人でしょう。芸を誰が育てたかというと、伝統なんだよ。哲学的伝統ですよね。日本では、これが混乱した。いわば思想的芸術の伝統が壊れたんだよ。その意味での知識人の孤独を、私はよく考える。大岡だって、福田恆存だって、大江健三郎だって、みんなそうだとおもう。知的伝統の援助が当てにできない辛さをみな持っている。磨きをかけているけれど、磨かれないものがいっぱい自分の中にあるんだよ。それはなぜかと言うと、いかに自分を磨こうとしても、環境が磨かしてくれないだろうが。だから僕らが自分でカットしたり磨いたりするところはほんのわずかなところだよ。たくさん隠れているんだよ、宝が。それはつらいね。」(中央公論社「日本の文学」43 小林秀雄 付録 大岡昇平との對談「文學の四十年」より)

  傳統を持たない悲哀である。小林秀雄といふ人の考へ方、感じ方がよく分かる文章だが、今の私には、そしてこれを讀んだ福田恆存の心の半分の氣持ちは「ずゐぶん甘つたれてゐるな」であらうと思ふ。日本の近代とは、傳統と切り放して行はれたものであり、演劇をやつてゐた福田恆存には、それが痛いほど分かつてゐた。能、歌舞伎、新國劇、新劇、ミュージカルと、蓄積しないままに歴史を刻んできた日本の演劇は、それが身體的な表現であるがゆゑに、無傳統の悲哀を直接的に感じ取れたのである。十二分に磨かれないままに、次のスタイルが入つてくる、さういふあり方を宿命的に背負つてゐるのである。福田恆存には、だから悲哀はない。さういふ宿命を自覺してゐるから、慰められても何も感じないのである。いや、正確に言へば、かういふ小林秀雄の言に、慰めを求めてはいけないと自戒してゐるのである。

   傳統との斷絶による不幸は、小林の言ふやうに「知識人の孤獨」なのかもしれないが、それだけ當時の知識人は、自己の内面に敏感であつたといふことでもあらう。だが、私には大江健三郎がそれほど「孤獨」であるかどうか、疑問である。樣樣な意匠を次次と小説に盛込んでゐる状況を見ると、自己を磨く意識を忘れてしまつたやうにさへ見えるのである。

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