言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語58

2006年03月05日 18時44分44秒 | 福田恆存

福田恆存の次のやうな指摘は重く受け止めたい。

人格が假設なら、國家も國民も當然假設であり、フィクション(假定・作り物)である。近頃は浮薄な東西文化比較論が横行し、日本人がどういふ人間であるか、或は日本の國がどういふ國であるかといふ類ひのお國自慢に打ち興ずる餘り羞恥心といふ折角の日本的美徳を臺なしにしてゐる手合ひが多くなつたが、自分がどういふ人間かといふ説明は自分よりも他人に任せておけばよく、吾々は日本人や日本といふ國がどういふ特性を持つてゐるかを論ふ暇に、世界が國家とか、人間とかいふものをどう考へてゐるかについて、十分、思ひを凝らすにしくはない。

「防衞論の進め方についての疑問」

最晩年、福田恆存は「これからの日本に必要なのは、もはや日本人論ではなく、人間論である。その仕事をするのが哲學だ」と語つてゐたと、中村保男氏は『福田恆存語録 日本への遺言』の文庫本あとがきで記してゐる。「哲學」などといふ新漢語で、福田恆存が御自分の考へを語つたかどうか私はいぶかしむが、必要なのは「人間論」であるとは、今引用した「國家とか、人間とかいふものをどう考へ」るかといふことの大切さを述べたことと一致してゐる。

今、引用した文章につづけて、かう福田は記す。

  (世界が國家や人間といふものをどういふふうに考へてゐるのかを・挿入前田)大ざつぱに言へば一般に西洋では、自分も人間も放つておけばどうにも手に負へない代物であり、てんでんばらばらな個人の慾望を適度に抑へ、それぞれの衝突から生ずる混亂を何とか纏めて行くためには國家の枠が必要であり、その國家の統一のためにはガヴァン(統治、支配)するガヴァメント(統治者、支配者)が必要であり、そのガヴァンする者の慾望とガヴァンされる者の慾望との衝突を規制するためには法が必要であると考へる。だが、一般の日本人は、自分の子どもが戰爭に驅り立てられ、殺されるのが厭だからと言つて、戰爭に反對し、軍隊に反撥し、徴兵制度を否定する。が、これは「母親」の感情である。その點は「父親」でも同じであらう、が、「父親」は論理の筋道を立てる。國家といふフィクションを成り立たせるためには子供が戰場に驅り立てられるも止むを得ないと考へ、そのための制度もまたフィクションとして認める。が、彼にも感情はある、自分の子供だけは徴兵されないやうに小細工するかも知れぬ。私はそれもまた可と考へる。「父親」の人格の中に國民としての假面と親としての假面と二つがあり、一人でその二役を演じ分けてゐるだけの事である。そして、その假面の使ひ分けを一つの完成した統一體として成し得るものが人格なのである。「私たちはしつかりしてゐない」といふ自覺が、「私たち」をしつかりさせてくれる別次元のフィクションとしての國家や防衞を要請するのである。要するに人格も法も國家も、すべてはフィクションなのであり、迫(せ)り持ち控へ壁などの備へによつて、その崩壞を防ぎ、努めてその維持を工夫しなければならぬものなのである。

「防衞論の進め方についての疑問」

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