言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語59

2006年03月07日 20時43分44秒 | 福田恆存

福田の論は、ここから「防衞は一種の控へ壁であり、國家といふフィクションを維持するためのフィクションである」と續き、森嶋通夫氏との根本的な違ひを「人間論」として提示していくが、それについて論評する必要はない。なぜなら、森嶋氏の論と福田の論と、どちらが正しいかは、この論文が書かれた昭和五十四年からこれまでの二十年の時の流れが、言葉にする以上に明瞭に證明してゐるからである。

ところで、福田恆存の「人間論」の精髓は『人間・この劇的なるもの』に示されてゐる。昭和三十一年福田四十五歳の時の作品である。

その作品の最後の文章は、「生はかならず死によつてのみ正當化される。個人は、全體を、それが自己を滅ぼすものであるがゆゑに認めなければならない。それが劇といふものだ。そして、それが人間の生きかたなのである。人間はつねにさういふふうに生きてきたし、今後もさういふふうに生きつづけるであらう」となつてゐる。

私もまたさう思ふ。さてさうであれば、個人にとつて、國家が必要である。それは、「生きる」ためである。そして同じやうに、「生きる」ためには、抽象的な言葉ではなく國語が必要なのである。譯の分からない「オト」を發しても通じないやうに、國語といふ全體が、個人の「オト」にすぎない言葉を否定することによつて、國語の美しさも、文體の魅力も出てくるのである。

個人がいくら柔らかくならうと、國家は必要なのである。いや、柔らかくなればいよいよ必要性が高まるとさへ言へるかもしれない。あるいは、國家は必要ないなどといふ言説がはびこると、かへつて個人は硬くならうとするのかもしれない。

いづれにせよ、個人が柔らかくなれば、國家も役割を終へていくと考へる山崎正和氏には、「個人は、全體を、自己を滅ぼすものであるがゆゑに認なければならない」といふことは分からない。山崎氏が、個人を活かすために設定する、その否定要因として認めるものは、せいぜい「他者」でしかない。他者の目に映る私によつて、私の自我を微調整する、といふのが、山崎氏の人間論である。

 自我が芝居の役であるとすれば、それが成立するのにまづ舞台が必要であるのは当然だらうし、いひかへれば、自我の成立に先立ってまづ他人との関係がなければならないのは、いふまでもなからう。

山崎正和「演技する精神」

しかし、芝居の役割として自己と他者とを考へるのであれば、自己と他者との役割を決めた劇作家の視點が必要である。それぞれに配役を與へた絶對者があるからこそ、舞臺のうへでの關係が生まれるのであらう。「まづ他人との関係がなければならない」といふのでは、人間觀察が足りない。あるいは福田恆存が言ふやうに「テーマだけが絶對者」であり、それにすべての役者も美術も道具係も演出家も作家も奉仕すべきとした方が正鵠を得てゐると言へよう。

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