言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

福田恆存の見た北村透谷

2006年03月03日 22時14分34秒 | 福田恆存

 福田恆存と北村透谷――これについては今囘の「國文學解釋と鑑賞」には觸れなかつた。

 そこで、補足として以下の引用をお讀みいただきたい。

「僕はさきにこの近代日本文學の系譜を書きはじめるにあたつて、當然觸れなければならぬ北村透谷を意識的に除外して過ぎた。が、彼の本質的、あるいは史的な價値を認めないかつたからではない。いふまでもなく透谷は近代自我の確立に最初の意識的な攻勢を示した詩人であり、その自覺のあまりに早すぎたために、いまだ封建的諸要素の協力に殘つてゐた當時の現實に敗退して不幸な生涯を終はつた。その革新的な情熱と昂ぶつた歌ひぶりは、いまだに僕たちの胸をうつものがある。その意味で今日に至るまで事あるごとに彼の意義が強調され、その時代にしては明確な近代意識に色どられた文章がいくたびか引用されてきた。しかし彼の不幸は現實に敗れてみじめな自殺を選んだといふことのうちにあるのではない――それは彼の自我を正當化しうるにたる場を描きえなかつた彼の感傷そのもののうちにあつた。颯爽たる自我の權威の登場にまつはるあの感傷は、いかに彼の生活と周圍の現實とを索引にしてみたところで、かならずしも僕たちのすなほな共感を喚びえまい。もちろん、日本の資本主義が興隆と同時に下降を、いひかへればその善意とともに惡と頽廢とをもたねばならなかつた歪みに、透谷の感傷を歸することは正しい。にもかかはらず、僕は彼の性格にある種の厭味を感得せざるをえない。それは彼のみならず、二葉亭や獨歩はもとより、明治二十年代、三十年代の作品の多くに共通の厭味であり、これをたんに、僕一個の偏癖とのみは斷じがたいものなのである。

     (中略)

 透谷における近代自我の攻勢と、その現實に面しての敗北とから生じる感傷が、このやうな時代のセンチメンタリズムと無縁であつたはずがない。彼の言葉の清冽と昂揚とにもかかはらず、僕の彼を信じえぬ理由がそこにある。いや、彼の文章が精神の昂揚に昂ぶれば昂ぶるほど、その興奮に僕は一抹の厭味の纏綿するのを感じた。字面をそのまままともに受け入れて彼の自覺の尖鋭さと革命的指導性とを承認するまへに、その自己主張の空疎で、いたづらに鬪爭的なるのに反撥を感じた。宜いかな、その言や――が、いつたい彼はなにをしたのか、なにを殘してゐるのか。この反撥は、ひるがへつて當時いまだみづからに適合し匹敵しうる作品を周圍にもたなかつた批評精神の不幸に思ひ至れば、行爲的な共感にも轉化しうるものでもあつた。しかし藝術はいかなる辯解をも峻拒する。僕たちは彼の自己主張の空疎なるところに、その後の近代日本文學の宿命となつた精神主義の弱點を認めざるをえないのである。彼の自覺の尖鋭さは、いかに近代自我の本質的な、乃至は高踏的な修飾語によつて裝はれてゐようとも、それはあくまで政治的な個人解放の發想にすぎず、そのかぎりにおいて時代に正しい一歩をあゆみだした透谷であつたが、なんらかの蹉跌がいとも安易に彼を文學の領域に轉ぜしめ、そこにただ歌ふことによつて自己滿足をうる道を見いださしめたのである。透谷は道の嶮しきを避けて易きについたと言へる。近代日本文學史における自我の覺醒の比較的早期において本質的な深さに達しえたのもそのためであり、それだけに當初より敗北から出發したものとしての安易さが、ことに透谷の感傷をとほして如實な現れを示してゐる。彼の自我の主張が、決して自己完成の倫理にすらいまだ通じえなかつたゆゑんである。」

      『作家の態度』所收「近代日本文學の系譜」(昭和22年)より

 これが書かれたのが、福田恆存三十五歳ぐらゐのことである。二十五歳で亡くなつた青年に對する、それも五十年前の青年に對する言としては、酷評と言つても良いほどである。しかし、その思ひはアンビヴァレントなものであらう。「自己完成の倫理にすらいまだ通じえなかつた」はずの青年Iに「その革新的な情熱と昂ぶつた歌ひぶりは、いまだに僕たちの胸をうつものがある」と書けるのは、福田恆存自身がさういふ危機を絶えず感じ、鬪ひに敗北することのないやうな緊張感を持ち續けてゐたからである。單に近親憎惡なのではなく、自分への戒めととらへた方が正確であらう。

 だからこそ、透谷に「厭味」を嗅いでしまつたのある。「自己滿足をしてはならぬ」、さう自戒してゐた福田恆存のつぶやきが私には聞こえてきた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北村透谷―《批評》の誕生

2006年03月02日 19時22分17秒 | 告知

 昨年の夏に書いた原稿が漸く本になつた。昨夏は暑かつたが、九州の田舍で透谷全集三册と格鬪してゐた。私の書齋は、机に椅子であるが、田舍では疉の上に正坐して透谷を讀んだ。讀みこんだと言へるほどの集中度があつたかどうか心許ないが、「絶對平和」に對する私自身の考へ方がしだいに明確になつていくのは實感できた。やはり聖書に歸るしかない。私は、パウロの言葉よりも福音書の方が大事だと思ふ。

 本書の卷頭言に、新保祐司先生が、小林秀雄を引用してゐる。それがいい。

 「最近の評論は、理論的に精巧になるに從つて、讀者を説得する力を急速に失つて來てゐる。懷疑と言ひ獨斷と言ひ、元來その健全な形では、それは理論と人間とを合體させる觸媒の樣なものだが、嘗て兆民とか透谷とか天心とかいふ人達が、極く當り前なものとして持つてゐたさういふ批評の鹽とでも言ふべきものを、現代の批評は紛失して了つたのである」(昭和一三年「現代日本の表現力」)

 以下は、至文堂のホームページより引用。

 その体内にはヨーロッパ精神史が駈け巡り、自身は若い明治の二五年を鮮烈に生き抜いた一人の青年、その深く鋭い「懐疑」と、直観と啓示にみちた「独断」が、日本の近代〈批評〉を誕生させた。
 彼によって生まれ小林秀雄によってひきつがれた近代の〈批評〉が、肥大化し空洞化するとき、彼、透谷の読み直しが蘇生への道となる。
 〈批評〉の再生と深化のため、いま、「透谷」が必要とされる。

【目次】
・編者の序―批評の塩について (新保祐司)
・批評は使命である―北村透谷論 (桶谷秀昭)
・透谷―その批評の根源なるもの ―『内部生命論』ほかにふれつつ (佐藤泰正)
・北村透谷とゲオルク・ビュヒナー (平岡敏夫)
・透谷詩の批評性と抒情性 ―『蓬莱曲』から〈蝶〉三部作の方へ (北川 透)
・北村透谷の思想と批評 (饗庭孝男)
・われらの狂気を (井口時男)
・「考へる事を為て居る」人間の出現―《批評》の誕生 (新保祐司)
・恋愛は女のものであるか―透谷の「厭世詩家と女性」について思うこと (松本健一)

・シンポジウム:近代ヨーロッパ精神史と北村透谷 (桶谷秀昭/平岡敏夫/富岡幸一郎/司会・新保祐司)

・徳の過剰は不徳に転ず―一つの透谷論 (西部 邁)
・この声に耳を開けよ (正津 勉)
・「意匠」の克服―『厭世詩家と女性』を読んで (田中 実)
・井上毅と北村透谷―「近代」と「東洋」の裂け目から (前田雅之)
・批評する「私」―北村透谷論 (田中和生)
・神獣論―透谷、泡鳴、迢空をめぐって (安藤礼二)
・北村透谷とワーズワス―冥交論に見るロマン主義的世界観の影響 (藤巻 明)
・詩人と批評家のあいだ―透谷・批評の誕生 (先崎彰容)
・絶對平和の端緒―透谷の意圖したもの (前田嘉則)

・対談:明治二〇年代とは何か? (御厨 貴/新保祐司)

・透谷における批評の生成と展開 (藪 禎子)
・北村透谷の詩の批評性―『楚囚之詩』から (阿毛久芳)
・透谷用語の在りか―「罪と罰」批評について (出原隆俊)
・透谷の批評―「我」からの創造 (永渕朋枝)
・北村透谷の言語意識―世俗内出世間・修辞・ルビの美・批評の誕生 (橋詰静子)
・北村透谷における”民族”と”英雄”の問題―人生相渉論争と英雄時代論争から (尾西康充)
・透谷と昭和のロマン主義―革命的ロマンティシズムから日本浪漫派へ (山本直人)
・北村透谷と日本近代における「一神教」「絶対者」の探求 (宮里立士)
・清冽な水脈―透谷と明石と愛山と (川崎 司)

・北村透谷主要参考文献目録 (鈴木一正)

国文学解釈と鑑賞 別冊

発行年月:2006年3月/A5判/総頁数:308頁

定価¥2800(本体¥2667)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言葉の救はれ――宿命の國語57

2006年03月01日 21時55分29秒 | 福田恆存

福田恆存は、「傳統について、本當に考へてゐる人」であつたから、假名遣ひについて論じ、國語問題についてまとめた。しかし、それは『國民の國語教室』としてまとめられたのではなしに、『私の國語教室』と名附けられたのである。このことの含意を考へたい。

そこで、蛇足になるかもしれないが、新しい歴史教科書のあり樣をめぐつても一言しておく。私は、山崎正和氏のやうに歴史を學校で教へることを拒否するやうな立場ではない。しかし、「國民の歴史」といふものにも正直に言へば違和感がある。

國民といふ概念は、フィクションである。もちろん、國家もである。人工品である。しかし「人工品だからといつて、法隆寺を輕視する謂はれはあるまい。問題は、すべてはフィクションであり、それを協力して造上げるのに一役買つてゐる國民の一人、公務員の一人、家族の一人といふ何役かを操る自分の中の集團的自己を、これまた一つの堅固なフィクションとしての統一體たらしめる原動力は何かといふ事である。それは純粹な個人的自己であり、それがもし過去の歴史と大自然の生命力に繋つてゐなければ、人格は崩壞する。現代の人間にもつとも缺けてゐるものはその明確な意識ではないか」(「近代日本知識人の典型清水幾多郎を論ず」)。

歴史に繋がるのは、「國民」ではない。個人である。もつと言へば「個人的自己」である。その個人的自己が歴史とつながるといふことは個人の人格を保つためにどうしても必要なことである。

國民といふ集團的自己で歴史と繋がることはできない。もし繋がらうすれば、知識がひとつ増えるだけで、人格は分裂したままであり、いくつかの集團的自我を操ることはできない。それが「人が人であることの難しさ」である。

ここら邊りは、ロレンスの術語そのままで、『アポカリプス論』を譯した福田恆存の面目躍如たるところである。

さて、新しい歴史教科書をつくる會の創設時の中心メンバーである西尾幹二氏は、言ふまでもなく、福田恆存の御弟子である(あるいは御本人は違ふとおつしやるかもしれないが)。日本文明についての大著『國民の歴史』を書かれ、「日本とはなにか」を懸命に追究されてゐる。國語の成立については、興味深い指摘がいくつもあつて、いづれ石川九楊氏を論じるときには、共に論じようと思つてゐる。

もちろん、西尾氏は「傳統について本當に考へてゐる」のであらう。しかし、その歴史敍述に、「國民の」と冠するとき、私はそれで良いのだらうかと思ふ。同じく福田恆存の御弟子の松原正氏も、西尾氏については『月曜評論』で徹底的に批判してゐたらしい。が、それを途中で讀逃してしまつてゐるので、どういふ論點であるかは分からない。ただ私は、『國民の歴史』と言擧げする姿勢には、なじめない。名附けるとすれば、『私の日本文明史』であらう(事實、御自分の半生記のタイトルは『わたしの昭和史』としてゐる)。

西尾氏が「個人的自己が過去の歴史と大自然の生命力とに繋がつてゐなければ、人格が崩壞する。そのことを明確に意識する」必要を感じてゐなかつたとは言はない。一讀すれば、それは明瞭である。この點は山崎氏とは違ふ。しかし、教科書を意識し過ぎて「國民の歴史」としたときには、その意識は不明確になつてしまつた。望蜀の願ひではある。

もつとも、書名は編輯者が附けたものかもしれないし、内容を論じずに名前だけを論じるのでは唯名論になつてしまふので、これ以上は止める。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする