福田恆存と北村透谷――これについては今囘の「國文學解釋と鑑賞」には觸れなかつた。
そこで、補足として以下の引用をお讀みいただきたい。
「僕はさきにこの近代日本文學の系譜を書きはじめるにあたつて、當然觸れなければならぬ北村透谷を意識的に除外して過ぎた。が、彼の本質的、あるいは史的な價値を認めないかつたからではない。いふまでもなく透谷は近代自我の確立に最初の意識的な攻勢を示した詩人であり、その自覺のあまりに早すぎたために、いまだ封建的諸要素の協力に殘つてゐた當時の現實に敗退して不幸な生涯を終はつた。その革新的な情熱と昂ぶつた歌ひぶりは、いまだに僕たちの胸をうつものがある。その意味で今日に至るまで事あるごとに彼の意義が強調され、その時代にしては明確な近代意識に色どられた文章がいくたびか引用されてきた。しかし彼の不幸は現實に敗れてみじめな自殺を選んだといふことのうちにあるのではない――それは彼の自我を正當化しうるにたる場を描きえなかつた彼の感傷そのもののうちにあつた。颯爽たる自我の權威の登場にまつはるあの感傷は、いかに彼の生活と周圍の現實とを索引にしてみたところで、かならずしも僕たちのすなほな共感を喚びえまい。もちろん、日本の資本主義が興隆と同時に下降を、いひかへればその善意とともに惡と頽廢とをもたねばならなかつた歪みに、透谷の感傷を歸することは正しい。にもかかはらず、僕は彼の性格にある種の厭味を感得せざるをえない。それは彼のみならず、二葉亭や獨歩はもとより、明治二十年代、三十年代の作品の多くに共通の厭味であり、これをたんに、僕一個の偏癖とのみは斷じがたいものなのである。
(中略)
透谷における近代自我の攻勢と、その現實に面しての敗北とから生じる感傷が、このやうな時代のセンチメンタリズムと無縁であつたはずがない。彼の言葉の清冽と昂揚とにもかかはらず、僕の彼を信じえぬ理由がそこにある。いや、彼の文章が精神の昂揚に昂ぶれば昂ぶるほど、その興奮に僕は一抹の厭味の纏綿するのを感じた。字面をそのまままともに受け入れて彼の自覺の尖鋭さと革命的指導性とを承認するまへに、その自己主張の空疎で、いたづらに鬪爭的なるのに反撥を感じた。宜いかな、その言や――が、いつたい彼はなにをしたのか、なにを殘してゐるのか。この反撥は、ひるがへつて當時いまだみづからに適合し匹敵しうる作品を周圍にもたなかつた批評精神の不幸に思ひ至れば、行爲的な共感にも轉化しうるものでもあつた。しかし藝術はいかなる辯解をも峻拒する。僕たちは彼の自己主張の空疎なるところに、その後の近代日本文學の宿命となつた精神主義の弱點を認めざるをえないのである。彼の自覺の尖鋭さは、いかに近代自我の本質的な、乃至は高踏的な修飾語によつて裝はれてゐようとも、それはあくまで政治的な個人解放の發想にすぎず、そのかぎりにおいて時代に正しい一歩をあゆみだした透谷であつたが、なんらかの蹉跌がいとも安易に彼を文學の領域に轉ぜしめ、そこにただ歌ふことによつて自己滿足をうる道を見いださしめたのである。透谷は道の嶮しきを避けて易きについたと言へる。近代日本文學史における自我の覺醒の比較的早期において本質的な深さに達しえたのもそのためであり、それだけに當初より敗北から出發したものとしての安易さが、ことに透谷の感傷をとほして如實な現れを示してゐる。彼の自我の主張が、決して自己完成の倫理にすらいまだ通じえなかつたゆゑんである。」
『作家の態度』所收「近代日本文學の系譜」(昭和22年)より
これが書かれたのが、福田恆存三十五歳ぐらゐのことである。二十五歳で亡くなつた青年に對する、それも五十年前の青年に對する言としては、酷評と言つても良いほどである。しかし、その思ひはアンビヴァレントなものであらう。「自己完成の倫理にすらいまだ通じえなかつた」はずの青年Iに「その革新的な情熱と昂ぶつた歌ひぶりは、いまだに僕たちの胸をうつものがある」と書けるのは、福田恆存自身がさういふ危機を絶えず感じ、鬪ひに敗北することのないやうな緊張感を持ち續けてゐたからである。單に近親憎惡なのではなく、自分への戒めととらへた方が正確であらう。
だからこそ、透谷に「厭味」を嗅いでしまつたのある。「自己滿足をしてはならぬ」、さう自戒してゐた福田恆存のつぶやきが私には聞こえてきた。