言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

小林秀雄の見た福田恆存の「孤獨」

2006年03月04日 21時39分41秒 | 福田恆存

小林秀雄の言より。

「あの人(註 正宗白鳥)の文章は、アランなんかの文章とたいへん似たところがあるよ。だけれどもアランというのは芸人でしょう。芸を誰が育てたかというと、伝統なんだよ。哲学的伝統ですよね。日本では、これが混乱した。いわば思想的芸術の伝統が壊れたんだよ。その意味での知識人の孤独を、私はよく考える。大岡だって、福田恆存だって、大江健三郎だって、みんなそうだとおもう。知的伝統の援助が当てにできない辛さをみな持っている。磨きをかけているけれど、磨かれないものがいっぱい自分の中にあるんだよ。それはなぜかと言うと、いかに自分を磨こうとしても、環境が磨かしてくれないだろうが。だから僕らが自分でカットしたり磨いたりするところはほんのわずかなところだよ。たくさん隠れているんだよ、宝が。それはつらいね。」(中央公論社「日本の文学」43 小林秀雄 付録 大岡昇平との對談「文學の四十年」より)

  傳統を持たない悲哀である。小林秀雄といふ人の考へ方、感じ方がよく分かる文章だが、今の私には、そしてこれを讀んだ福田恆存の心の半分の氣持ちは「ずゐぶん甘つたれてゐるな」であらうと思ふ。日本の近代とは、傳統と切り放して行はれたものであり、演劇をやつてゐた福田恆存には、それが痛いほど分かつてゐた。能、歌舞伎、新國劇、新劇、ミュージカルと、蓄積しないままに歴史を刻んできた日本の演劇は、それが身體的な表現であるがゆゑに、無傳統の悲哀を直接的に感じ取れたのである。十二分に磨かれないままに、次のスタイルが入つてくる、さういふあり方を宿命的に背負つてゐるのである。福田恆存には、だから悲哀はない。さういふ宿命を自覺してゐるから、慰められても何も感じないのである。いや、正確に言へば、かういふ小林秀雄の言に、慰めを求めてはいけないと自戒してゐるのである。

   傳統との斷絶による不幸は、小林の言ふやうに「知識人の孤獨」なのかもしれないが、それだけ當時の知識人は、自己の内面に敏感であつたといふことでもあらう。だが、私には大江健三郎がそれほど「孤獨」であるかどうか、疑問である。樣樣な意匠を次次と小説に盛込んでゐる状況を見ると、自己を磨く意識を忘れてしまつたやうにさへ見えるのである。

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