言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

清水幾太郎『流言蜚語』

2022年08月05日 18時25分39秒 | 評論・評伝

 

 

 蜚語とはデマのことである。

 安倍元総理の狙撃事件以後、知りたいことがほとんど聞かれずに、その周辺の私にとつてはどうでもよい情報が報道されてゐる。あの事件は本当に単独犯なのか、そしてどうして安倍元総理以外に被弾した人がゐないのか、私にはそのことの謎の解明こそ大事なことである。奈良県警の不始末は明らか。犯人が実母を恨んでゐるのは明らか。それでそのことは十分である。それなのに、本質なところに報道は迫らない。それがなぜなのか。むしろその方が気になつてゐる。

「吾々が眼隠しをして往来を歩かせられた場合、『水溜りがある!』と言われると、もう一ケ月も好天気が続いているということを考える暇もなく、いやたとえ考えたとしても思わず足をとどめるであろう。これと同じように報道、通信、交通がその機能を果たさなくなった時、社会の大衆は後になっては荒唐無稽として容易に片づけることの出来るような言葉もそのまま受け容れるのであって、どんな暗示にも容易にひっかかってしまうものである。」

 2015年に京都大学が理系の受験生に向けて出題した文章の最後である。もともとは1937年初出の文章である。人間とは変はらないものだ。それを感じる。清水幾太郎にこんなことを書かれても、とも思ふが。

 

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