言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「トップ・ガン マーベリック」を観る

2022年08月04日 21時24分11秒 | 映画

 

 

 映画好きの友人を誘ふには、映画観に行かないかと声をかけるのがいい。それでも、これほどの人気作品であるし、公開してから一ケ月は経つてゐるだらうから既に観てゐる可能性が高いから、観てゐれば何か他の作品を探さねばと思つてゐたが、予想に反してまだ観てゐないといふことで、家内も誘つて観に行つた。

 前作は、たぶん大学時代に観たはずだから、もう35年ほど前になるか。友人は私よりもだいぶん若いので、前作を知らないと言ふ。なるほどだから未観であつたのかと妙に納得した。

 あらすぢは略す。ただ大変に面白かつたと言つておけば良いだらう。未観の方はぜひ行かれてはと思ふ。最後は少々ご都合主義的なまとめ方であつたが、人物同志をつなげるにはあのやうな終はり方が良いのだらう。娯楽作品としては秀逸であつた。

 私の関心は、別のところにもあつた。アメリカ人の個人主義といふのが気になつたのである。先日、イギリスに留学してゐた教へ子が帰国の挨拶に来てくれたので、しばし歓談をしたが、その折に話してゐたのも彼の国の人々の個人主義的振る舞ひであつた。イギリスが嫌ひになつたとも言つてゐた。もちろん、アンビバレントであるとは思ふが。

 日頃は、私たち日本人も近代人よろしく民主主義やら個人主義やらを自家薬籠中の物にしてゐるかのやうに考へてゐるが、どうしてどうしていざといふ時には、世間体で生きてゐることを赤裸々に見せてしまふ。

 トップガンといふのは海軍の航空パイロットの最上級のメンバーで構成される特別編成チームである。それぞれが自分の能力を誇りに思つてゐる。もちろんチームを組んでミッションに臨むのだが、自分の性格やら志向を主張するなかでチームワークが形成されていく。性格的に合はない輩や態度が気に入らない奴がゐたとしても、それで排斥したり疎外したりはしない。もちろん映画であるから実際にはさういふことが完全にないといふ訳ではないだらう。しかし、映画といふレベルで比較しても例へばかういふ映画を日本で撮るとしてかうはならないだらう。台詞にはきつと「なあ、お前チームワークを乱すやうな言動は慎めよ」といふ言葉が入るに違ひない。個の可能性を引き出すといふよりは、もたれ合つて融け合つたチームの連帯性をクローズアップした演出が浮かび上がるやうになつてゐるはずだ。

 しかし、この映画の人間関係は、最後まで一人ひとりが個として生きてゐた。内面は必要以上に語られないし、他者を必要以上に否定しない。選ばれない者は選ばれないことに対して、自分の力の不足であるとの断念が気持ちよいほどに語られる。そこには同情など微塵もない。そして、選ばれた者は苛酷な試練に向つていく。そこには容赦はない。

 失敗やルール違反をする部下には徹底的に強い調子で上官は責めるが、部屋を出れば対等な関係であるかのやうに映つてゐた。ルールはルール。人格は人格なのである。

 個人主義とはかういふものなのだらう。試練は厳しいが、空気が軽い。そんな気がした。その清々しさが、日常の粘つこい人間関係の重力に疲れた心には気持ちよかつた。

 いい映画を観た。鑑賞後の食事は、だからとても楽しいものになつた。

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