言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

内田樹『街場の成熟論』を読む

2024年08月16日 08時31分25秒 | 本と雑誌
 

 久しぶりに内田樹の本を読んだ。
 十年ほど前はむさぼるやうに読んだが、その政治的発言が外れ続けるのを見てゐて違和感が強くなり、読むのを止めてしまつた。
 それがどういふ訳か、この夏に読む本の一冊として鞄に入れ久ぶりに読むことになつた。
 政治的見解の「ずれ」について、内田が弁明のやうなものを書いてゐた。
「そもそも私にはどの政党の政策が『客観的に正しい』のかがわからない。外交や安全保障や経済について、私には政策の適否を判断できるほどの知識がない。知識経験豊かな専門家たちの意見が食い違うような論件について素人の私には判断がつくはずがない」(93頁)と。
 それなら普通は、政治的なコメントは寄せないといふのがマナーだらうが、内田は違ふ。本書にも安倍元首相の批判について何度も記してゐる。かういふことをして平気でゐられるところに、この方の愛嬌といふかデトチリ具合といふかが表れてゐる。ご都合主義とまでは言はないが、知識のアクロバットはたいへん面白いが、やはり専門家からすると相当に穴があるのではないか。そんなことが見えるやうになつた。
 本書でも、鷲田清一との対談に触れ、鷲田が「危機というのはね、あれは20世紀に入ってから、流行しだしたんよ」といふ言葉を敷衍して、ヨーロッパの高等遊民的階層である「ランティエ(年金生活者)」が第一次大戦によつて消滅したことと関連があるだらうと述べてゐる。カズオ・イシグロの『日の名残り』を引き、オルテガの『大衆の反逆』を参照し、司馬遼太郎の『坂の上の雲』まで取り上げるのは見事といふ他はない。なるほど面白いなと思つた。
 しかし、そもそも危機が20世紀の特徴といふのは本当か、といふ論証はされないままである。確かにヴァレリー『精神の危機』、アザール『ヨーロッパ精神の危機』、フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』などを挙げて、二人で「さうだ、さうだ」といふことになつたらしが、管見によれば、19世紀のキエルケゴールの一連の著作の名前だけ見てもそれは「危機」の直観を示してゐる。例へば「あれかこれか」「おそれとおののき」「不安の概念」、そして「死に至る病」。そして、18世紀のフランス革命もまた「危機」であつた。さらには、15世紀のミケランジェロがルネサンスの只中にゐながらにして、そのことに悩み苦しんでゐた。彼の残した傑作がシスティーナ礼拝堂の「最後の審判」であることは実に暗示的である。キリスト教の終末論を少しでも知り得るところに内田や鷲田の知があるならば、少なくとも西洋の危機感には2000年が横たはつてゐるといふことに気付いたはずだ。
 内田から離れて、今ではかういふ程度には冷静に読めるやうになつた。そして、改めてその知の冒険を楽しめるやうになつた。
 そして、
「ああ、またこんなこと書いちやつて」とか
「へえ、こんな本があるんだ」とか
知の案内人として対話を交はせるありがたい存在となつてゐる。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする