言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

山田太一「今朝の秋」を観る

2024年08月23日 22時35分56秒 | 映画
 
 
 今夏の映像視聴はハズレが多かつた。「ぼくのおじさん」(北杜夫原作)、「秋刀魚の秋」(小津安二郎)は、期待してゐたが、肩透かしだつた。
 それに対して「今朝の秋」は、素晴らしかつた。目の前に人はゐるけれども、独白調で語る台詞回しは小津安二郎に似てゐるけれども、山田の場合にはもう少し思想的である。言葉は気分の表明のやうに見えて、実はさうではなく、思想を構築するやうに、しかもレンガを積んでいくやうでもなく、ちやうど彫刻家が木材を削りながら造型を作り出してゐる装ひである。掘つては修正し、残しては掘る。その往還が1人の人物の台詞として描かれていく。それは見事であつた。もちろん、うまく行つてゐない時もあつた。特に晩年の連続ドラマは見てゐてそのリズム感がなく、思想をなぞつてゐるやうに見えてしまふものがあつた。
 しかし、この「今朝の秋」は違つてゐた。わづか1時間少しのドラマであるが、味はひ深さはドラマならではの醍醐味である。
 中年の夫婦はうまく行つてゐない。そんな中、夫は癌を患ふ。妻は、そのことを夫の父親に告げるために蓼科に行く。ドラマはそこから始まる。父親は息子を見舞ひに東京に病院まで出かける。息子はわざわざ上京して来た父親の姿を見て自身の病がどれほどのものであるかを予感する。しかし、父も妻もそれを言はない。父と別れた母親も見舞ひに来る。いよいよさういふことかと息子は知る。
 息子、その妻、父、母、それから娘。登場する人物は皆1人者である。関はりが濃いはずのものが、ちよつとした行き違ひがきつかけとなつてか細い糸で辛うじて繋がつてゐる。寂しさがその場を色付けてゐるのがはつきりとしてゐるが、その告白を誰も受け止められない。
 しかし、そこにある1人の人物が現れることによつて見事な触媒となり、一気に色合ひが変はつて行く。一粒の砂が真珠を作り出すやうに、異物とも思はれる存在が彼らを蘇生させるのだ。
 今朝の秋。それは冬に向かつて行く厳しさを暗示させるが、豊かな実りを実感させる瞬間でもある。
 どこかで観ることも出来るのだらうか。
 もし観る機会があれば、観ていただきたいドラマである。
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