言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

稲垣良典『神とは何か 哲学としてのキリスト教』

2022年12月31日 12時13分13秒 | 評論・評伝
 
 追悼の意味を込めて、今年最後の書評はやはりこの書である。
 本年1月15日に93歳で亡くなられた、トマス=アクィナス研究の第一人者である。私は、福田恆存が見たトマス=アクィナス像でしか、この中世の代表的神学者を知らなかつたから、その評価はあまり高いとは言へないものだつた。つまり、神とは背後から感じるものであつて、それを正視し表現することから神は神でなくなつたといふのが福田恆存の中世理解であつた。もちろん、その代表者がトマスであるから、勢ひ福田はトマスの神学を謬見もしくは誤解と見てゐたわけだ。
 しかしながら、私たちに理性や悟性といふ知性があるからには、神とは何かを問ふことは知的誠実そのものであり、言つてみれば知性とは真の根源たる神(もちろん、真に限らず美でも善でも。あの西田幾多郎が『善の研究』ではキリスト教を否定してゐたが、晩年の『場所的論理と宗教的世界観』では「内在的超越」として神の創造を肯定してゐた。このことは本書で稲垣が記してゐるが、いかにも示唆的である)を知ることとさへ言つても良いのではないか。
 私の福田恆存像に以上のやうな変化をもたらしてくれたのが、稲垣の著述群との出会ひである。
 本書を簡単に要約することは難しい。それは偏へに私の能力によるものであるが、多少の自己弁護を許してもらへるのであれば、哲学的思惟とは要約を許さないといふことでもある。
 特に稲垣の論考は、一つのことを目指しながら、段階を踏まへて一つひとつ念を押しながら反復しつつ前に進んでいく。だから、その思考の歩み自体が楽しいのであり、知識の積み重ねで作られるレゴブロックのやうな「構造」ではなく、知恵を駆使してこちらの頭のなかに一つの像を描き出してくれるやうな印象派の筆遣ひなのである。だから、一つひとつの知識を確認していく要約ではたぶん「なんだ、そんなことか」で終はつてしまふのではないかと思はれる。
 それでも目指すところは明確で、「知的探求をどこまでも『知的』探求として前進させるために、信仰というより高度の知的光に直接に依存する」ことが必要で、その手順を示したものである。
 つまり、私たちの普段考へる「知的探求」が極めて矮小化されてしまつてゐるといふ問題意識である。
 本書の冒頭にかう書いてゐる。
「デカルト、ヒューム、カントという、近代哲学を建設し、方向づけた哲学者たちは人間的認識、つまり人間の『知る』という働きをもっぱら確実で検証可能な科学的知識と言う側面に限定し、その帰結として『神とは何か』『自己とは何か』という問いが(科学的)知識の領域ではなく、知恵の領域に属する問いであることを見誤ったのではないか。」といふことである。
 これには率直に驚いた。なるほど、さういふことである。中世の哲学的営為は、まさにこの反対であり、「智慧の探究」であつた。近代がそれを否定したことには意味も役割もあつたが、だからと言つてその知的遺産を否定してよい訳はない。保守的な生き方を尊ぶならば、かうした「智慧の探究」に素直に学ぶべきである。

 稲垣は、また実兄から旧制高校時代にチェスタートンの『正統思想』を読むやうに薦められたと言ふ。その末尾を本書の最後の方で引用してゐるが、その言葉には上のやうな「智慧の探究」の精神が集約されてゐた。

 私にとつて、今年最良の一冊であつた。
 
 ご冥福をお祈り申し上げます。 

コメント
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