言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

適菜収『バカを治す』を読む

2022年12月27日 21時18分05秒 | 評論・評伝
 
 
 今日が仕事納め。大阪に戻る途中で名古屋の予備校に通ふ浪人生に会つて激励をし、帰阪する。車中で読んだのが本書。
 哲学者適菜氏の言ひたい放題の社会評論。
 はじめに書かれてゐたのが、本書の目的。これを明示するのがこの方のいいところ。これが嫌なら読まなければ良い。本は読みたい人のためにある。
「本書の目的は、バカを批判することではありません。もっと言えば、バカを批判しても無駄です。バカは『バカの世界』の住人です。住んでいる『世界』が違うので、共通語がない。」
 その通りだと思ふ。そして、続けて
「それよりも、バカの本質をつかむことにより、自分の内部に存在する『バカ』を克服することが大切です。」
 その通りだと再び思ふ。
 そして、そのためには、ゲーテやニーチェを読むことだといふのが適菜氏の主張である。
 では、バカの本質とは何か。
 民主主義、社会正義など、一見正しいと思はれることを、疑ひもなく信じてゐる人のことである。「彼らは単なる無知ではありません。(中略)新聞を丹念に読み、テレビニュースを熱心に見る。そして自分たちが合理的で理性的であることに深く満足している」。私もまた同じく考へてゐる。
 新聞が真実を書いてゐるかどうか。テレビが正確に伝へてゐるか。取材される側に一度でもなつた経験があれば、それが実にウソであることが分かるはずだ。となれば、新聞やテレビを基準にしてゐる判断も正しい訳はない。さう考へるのが、自分の内部に存在する「バカ」を知つてゐる人である。
 しかし、世の中にはそれが出来ない人が一定数ゐる。そんな人が職場に1人2人3人4人と増えて行けば、どうすれば良いのか。実を言ふとそんな現実に今年は悩まされた。大概さう言ふ人物は声がでかい。私の経験で言へば、声の大きさとバカ度の高さとは比例するやうだ。
 そんな人物とは距離を置くに如くはなないが、大勢はその声になびいてしまふから厄介だ。俗にサイレントキラーと言はれるが、「バカ」1割、サイレントキラー5割ゐたら、もうその組織の成長はない。
 適菜さんに話を訊く機会があれば、組織とバカの比率について質問してみたい。
コメント
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