言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

いよいよソフトファシズムの時代へ

2022年10月23日 21時21分12秒 | 評論・評伝

 岸田首相の言説がいよいよ怪しくなつてきた。検討使と揶揄されてゐるうちは、良くも悪くも「変化」を来たさない。静かな後退は、それはもちろん政治的には悪であるが、それでも時間に余裕があるから、そのうちに次世代が育つ可能性があつた。与党の衆議員がいまどれぐらゐゐるのか知らないが、大臣に指名されるやうな人物でもほとんど見知らぬ人ばかりであるから、まつたく知らない人ばかり。その中には多少はまともな人もゐるだらうから、三年後の衆議員選挙の時には頭角を現してくる方もゐるだらうとの期待を、もちろんそれはかすかな期待であるが寄せてゐた。

 しかし、それまで宗教法人の解散請求には民法の不法行為は該当しないと言つてゐたのに、旧統一教会への批判が高まつたことに伴ひ、次の日には突然「該当する」と答弁を変更してしまつた。これでは政局に勝ち残れまい。

 大衆迎合主義に見えるこの変更には、何か深い意図でもあるのだらうか。そもそもこのことは、政府が判断すべき内容なのだらうか。

 内心の自由は、自由の権利のなかで最も尊重すべきものである。これはむしろ立憲主義を掲げる野党の方が声高に叫んでゐたことではなかつたか。憲法とは、国家=政府を縛るための法であるとあれほど主張してゐた彼らが、真つ先に宗教法人の解散請求を掲げる不可思議さ。

 しかし、野党にとつては不可思議でもなんでもない。彼らが掲げる立憲主義も、宗教被害者の救済策も、要は反共団体である旧統一教会への憎悪から出たものである。その意味では一貫してゐる。つまり、彼等の信条の第一条は、左翼思想の普及である。そして、第二条は、そのために政権与党を打倒することである。第三条は、それに資する思想を喧伝することである。その第三条の第一項にあるのが、立憲主義であり、第二項が弱者救済であり、第三項が性差別撤廃である。言はば、これまでの「常識」への痛撃である。

 旧統一教会は、彼らの憎悪の対象であり、これほどまでに執拗に攻撃してくるのは、ルサンチマンがそこにあるからである。

 愚かなのは、大衆である。被害者救済、弱者救済といふ大義名分がいつたいどういふ根つこから生み出されたスローガンであるのかが分からないから、大衆は正義感をもつてその主張に賛同する。「分からない」といふことは「見えない」といふことであり、さらには「存在しない」といふことである。夜空の星座は神話を知らなければ「分からない」し、いくら網膜にその星々が映つてゐても「見えない」のであり、結果的に「存在しない」といふことである。

 神話(物語)のことを最近ではナラティブといふが(ナレーターと同じ語源である)、まさに今起きてゐるナラティブが「分からない」人には真実が「見えない」のであり、結果的にそこには真実が「存在しない」のである。

 さういふ大衆に、もしヒントを与へることができるとすれば、今回の事件によつて当該宗教団体が「解散」されることによつて利するのは誰かを考へてみることだけだらう。野党議員、左翼知識人、左翼弁護士、左翼マスコミ人、左翼活動家である。今日の血祭りを楽しんだ大衆が利することは何もない。しかし、近い将来きつと被害だけは受けるはずである。

 そして、「政治なんて信じられるか」といふ無責任な発言がますます大手を振ることになり、大衆は政治など金輪際信じたこともないくせに政治に責任を押し付けていよいよ自分の頭で考へることをやめていく。さうなれば、左翼の思ふツボ。一気に全体主義へと舵を切る。その時には万事休す。弱者救済も差別撤廃のスローガンもことごとくゴミ箱に捨てられる。最大の強者である独裁者によつて大差別主義が繰り広げられていくのである。

 これが妄想であることを願ひたいが、ナラティブが見えない岸田首相の答弁の変更は、ソフトなファシズムの始まりのホイッスルのやうに感じてしまふ。二〇二二年七月八日から、日本は大きく変はつてしまつた。私はさう見てゐる。

 

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