言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『滅びゆく思考力』を読んだ日

2016年10月25日 21時01分10秒 | 日記

 私たちの生活に、視覚的な情報によつて脳を刺戟する機械が入り込んでから、今日の問題の多くが始まつた。テレビ、ゲーム、ネット、SNSなど、特に子供の脳にさういした情報がなだれ込むやうになつて、すべてが狂ひ始めたと言つてよいやうに思はれる。

 臨界期といふ言葉がある。その時期を過ぎてしまふと後から何をしても取り戻せないといふ限界の時である。学習の臨界期は当然初等中等教育期である。その時期が激しく揺さぶられてゐるのである。

 何をすればいいのかは分からなくても、何をしてはいけないといふことははつきりしてゐるのではないか。

 しかし、「かはいさうだから」といふ親心によつて、子供は野放しになつてゐる。だいぶん前に宮崎大学の教育学部の先生の話を聞く機会があつたが、その方は「子供をしつかり教育しないことも虐待である」と強い調子で述べられてゐたことがあつた。「してはいけない」といふことはマイナスの力であるから控へようといふのが近年の教育理念では優勢である。積極的な「何々をしよう」といふ方向で教育するのが正しいといふ主張である。尤もである。しかしながら、してはいけないといふことも教へなければならない。しつかり躾けないで子供を見守るだけでは虐待と同じであるといふのである。

 聖書によれば、「生めよ。増えよ。地に満てよ。万の物を治めよ。」が神の人間に対する初めの言葉であるが、その次には「しかし善悪知るの木の実は取つて食べてはならない。」とも言はれた。プラスの言葉とマイナスの言葉とは、やはり同時に与へられるものである。したがつて、躊躇なく、してはならないことをしてはならないと言ふべきなのである。

「多くの時間を無為に過ごしている子どもを、それぞれの脳の発達段階に応じた最適の活動に関わるよう仕向けることは可能である。次から次へと遊びを変える子どもは、多くの感覚刺戟を受け取っているかも知れないが、経験を意味のある形で理解したり統合する連合のネットワークを形成するという時間のかかる積み重ねの手を抜いていることになる。(中略)子どもの心を『大音響、喧噪、混乱』から守ることが不可欠である。」(『滅びゆく思考力』59頁)

 本書は、1990年にアメリカで出版され、92年に翻訳出版された。すぐに購入してしばらくしてから読んだ。今日、書庫を探してゐて手に取ると付箋がつけられ、あちらこちらに鉛筆の線が記されてゐた。内容的に今日の研究水準からすれば間違ひもあるのかもしれない。執筆当時の著者の問題意識は主に「テレビと子供の脳」にあつただらうが、今日ではそれ以上にゲームやスマホであらう。さらに私自身の問題意識も、最初に読んだときと今とでは違つてゐるはずだ。しかし、付箋をつけられた箇所や線が引かれた部分を改めて読んでも、なるほどと思ふばかりである。上に引いた文は、今回改めて感じた箇所であるが、材料を提供することに汲々としてゐるばかりで「無為」の必要について一顧だにしない現在の教育の在り様に十分に示唆を与へるものとなつてゐる。

 さて、さういふ幼年期を過ぎて中等教育に至つた子供をどう教育すべきなのだらうか。やはり材料を提供するばかりではなく、考へるといふ習慣を身につけさせるといふことが必要なのであるが、本書は「読む」ことの重要性を指摘してゐる。読む、書く、聞く、話すの統合こそ大切と説く。言語技術の教育である。

 今日、VRといふ新しい技術がゲームに活用されるやうになつた。幼児には斜視になる危険性があるらしいのでその点でも注意が必要であるが、あの種の媒体が教育に入り込むことは気を付けなければならない。言語技術の対極にあるものだからである。

 

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