昨晩遅くに東京より戻つてきた。「知の理論」の学習会を終へ、再会を楽しみにしてゐた恩人と浅草で夕食を共にしてそのまま界隈を散策して戻つてきた。楽しい一日であつた。
しかし、前半の学習会は不作であつた。期待値が高かつたからかもしれないが、どうにも食ひ足りないといふ思ひが強い。「知の理論」そのものといふよりも実践例があまりに冴えないのである。
今日は、同業者への手厳しい批判になるので、気持ちを害されるかもしれない。それでもよければといふ条件付きで以下をお読みいただきたい。
「眼高手低」といつたらいいのか、いやそもそも「知の理論」の理念自体も極めて志が低い。「知の遊戯論」といつた方がいいのではないか。そして、何より実践してゐる教員の理解が低い。
第一に活動自体に理念がない。「批判的精神を養ふ」といふことを何度も強調されてゐた。それはなぜか。「平和と民主主義」のためである。きつぱりと自信満々に言つてゐた。「本国アメリカでもさうです。」「国家にだまされない国民を作ることなのです」と言つてゐた。冗談を言つてはいけない。学校は国家の支援と保護のもとにあつて、単なる制度でしかない「民主主義」と、政府の無策による「平和」をしか意味しないものを理念として掲げるのであれば、それは制度に寄りかかつた日和見の国民しか生み出さない。批判はポーズでしかなく、それを真面目にやれば、生徒は「さうか、平和と民主主義を守るといふポーズが大事なんだな」と思ひ込むやうになる。それで本当によろしいのか。そのための擁護論として「知の理論」があると思つてゐるのなら、相当のレベルで「批判的精神」が足りない。クリティカルシンキングを大上段に構へて力説する団体としては、致命傷ではないか。
具体的な例を挙げる。
講演者の一人が、ある本についてのアマゾンレビューを取り上げてゐた。本と、そのレビューとを引く。