言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

教育は誰のためのものか。

2016年10月04日 08時42分19秒 | 日記

 これまでの教育が求めてゐる学力は「知識・技術」で、これからの教育が求めてゐる学力はそれに足すことの「思考力・判断力・表現力」と「主体性・多様性・協働性」である。

 前者だけでは駄目で、後者が必要でそれを身につけるようにさせようといふのがその意図である。これはブルームの分類法と見事に対応するもので、それを根拠にしたものであらう。前者に当るのが「記憶・理解・応用」であり、後者が「分析・評価・創造」である。

 しかし、ここに決定的に欠けてゐるのが何かといふと、「公共」といふ視点である。個人の学習到達目標としては、新テストの方向はいい。しかし、学校教育での達成目標は個人に焦点を当てるだけでは満足できるわけではない。

 かういふ発想の下に今後カリキュラムが作られ、運用されていくとすれば、学校はますますサーヴィス業化し教育機関であることを否定していくことにならう。なぜなら、よりよいサーヴィスの提供が第一義的に追及されるやうになり、そのサーヴィスとは個人の目標の達成率で評価されるやうになるからである。

 しかし、教育とは学校の卒業時に達成されなければならないものであらうか。例へば英語が出来るやうになりました。資格が取れました。もつと言へばいい企業に就職できました。いい大学に入学できました。さうしたものが、教育の目標になつてしまふ。なるほど進学実績を自慢にする学校は数多くある。その数で学校を選んでゐる人も多い。しかし、それでもなほそれは第一義ではないといふことは、前提としてある。三年間なり六年間を大学進学のために費やすといふことをやつてゐる学校はないとは言はないが、魅力ある学校とは思へない。それはいはゆる進学校ほどさういふおろかなことなしてゐないのを見れば明らかである。さういふ学校ほど内容の充実に真剣である。

 公立私立に関はらずに学校に税金が投入されてゐる根拠は何か。それは「公共への還元」が求められてゐるからである。伝統を保守し社会を維持し未来を創造していくための人材の育成こそ教育の理念である。上にあげた学力の要素全てが何に活用されるべきか、それは個人の成果ではなく公共への奉仕である。その事なしに今の教育改革が進めば、きつと日本は日本でなくなる。場所と名前は一緒でも、この場所は別の空間になる。それを危惧するのだ。

 たぶん今の改革を推し進めようとする人は、私の危惧を「織り込み済み」として論難するであらう。しかし、それは当らない。どんなに抗弁して「織り込み済み」と言つてもそれは事実ではない。布地にシールが貼られてゐる程度ですぐにはがれてしまふ。なぜなら本気ではないからである。

 自己の達成目標を支援するのが教育の役割であることを否定するわけではないが、それが第一義になつてはならない。幼さを断ち、欲望を抑制し、他者を考へ、協働によつて喜びのうちに最大多数の幸福を実現していく人間こそ教育の目指す目標である。

 先日の日曜日、家から一時間ほどののところにある美術館に出かけた。田舎にある美術館で、途中田んぼ道を通る。信号など滅多に引つかからない場所であつたが、突然赤になつた。「なんだ中学生か。くそ真面目に信号機なんて使つて。」と思つたが、その学生は、渡りきると自動車道路があるので、自転車から降りて歩き、自転車専用道路に入ると再び乗つて走つていつた。いかにも自然な動作であつた。じつにすがすがしい姿であつた。かういふ姿を新しい学力観からは見出せない。理屈をこねて「誰もゐなければ信号を無視して道路を渡つたつていいぢやないか」と言つてきさうである。さういふ子がゐてもいい。そして、どんどんさういふ子が増えていくであらう。しかし、である。さういふ子を学校が産み出していく必要はない。黙つて交通法規を守るやうな子を応援していくのが学校でありたい。ノスタルジックな思ひだとの非難は甘んじて受けるが、これでまずいとは思つてゐない。 

 最初の話題に戻るが、今の学力観にも問題があるのは、まさにその点への配慮である。学力要素としては「知識・技術」でいい。しかし、それをどう用ゐるかといふ指摘である。それは道徳教育とも違ふ。知識や技術とは何のためにあるのか、といふことを教科指導の中にこそ取り入れるべきである。

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