言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

読みたい雑誌

2016年10月10日 11時55分02秒 | 日記

 オピニオンや文藝の月刊誌で定期読してゐるものはない。新聞の記事下の書籍広告欄を見て、面白さうだなと思ふものに目星をつけて、書店に行く。一瞥してタイトルと内容とが合致してゐるやうに感じたら、次のステップ。読みたい記事がその雑誌に一つしかないのならその場で読んでしまふ。二つ以上あれば、購入する。もちろん、一つしかない場合でもこれはじつくり読んでみようと思ふやうなものであれば、やはり買ふ。私にとつて最も購買意欲をそそられるのは、著者への信頼、興味の強さである。

 さて、興味のある雑誌が三冊あると、さらに別の選別の力が働く。三冊も買ふと3,000円近くになる。それぐらゐケチるなよと思ふかもしれないが、本は次々に読みたくなるものだから、節約力が効いてくる。三つ並べて一つを削る。図書館で借りられるかどうかも条件に加はる。書籍代を気にしなくて済むやうになれるといいのだが。

 そこで読者の勝手な願ひを一つ。

 雑誌も電子書籍化するやうになれば、記事ごと販売してほしい。そして、それをオンデマンドで紙の雑誌にしてくれればなほいい。

 このことの背景には、なにより雑誌が面白くないのである。賞味期間が二三ヶ月しかない記事を集めた雑誌を購入したいとは思はないからだ。

 少なくとも四、五年は、もつと言へば五十年ぐらゐ持つ論文がもつと出てくればいい。ゐないとは思はないのに、さういふ人の文章が載らないのはなぜなのだらうか。編集者自体の感度の鈍さか。

 もう少し考へてもらへるとありがたい。

 

コメント
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