言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

欧州の行方 その2  英国に欧州化する覚悟はあるか。

2016年06月21日 08時12分29秒 | 日記

 昨日、引用したブレンダン・シムズ氏は、最後に「欧州化する英国」ではなく、「英国化する欧州」が必要だと言ひ、「独仏などの決断にかかっている」と述べてゐた。

 変はるのは英国ではなく欧州だ、とはずいぶん虫のいい言ひ方であるなとは感じたが、目指す方向がそれしかないのであればしかたない。しかし、それを求めるにふさはしい覚悟も必要だらうとも感じた。

 それで以前読んでゐて気になる本を読んでゐたら、かういふ箇所を見つけた。

「ある民族文明が世界文明になるためには、皮肉なことだけれど、それを支えていた民族が死に絶えるか、あるいは弱小なものにならなくてはならない。なぜそうかというと、それぞれ異質な民族文明がその世界文明の枠組みのなかで互いに対等になるためには、つまり異質性をきちんと保証するためには、大きな枠組みの本家本元というのがあつてはいけないんです。たとえば九世紀以降の西洋においても、ラテン語というものは生き残っていますが、それはもはやヨーロッパ中のだれも言葉でもない。だれにとっても古典で、だれにとっても外国語なんですね。だからこそ、ラテン語は普遍的な枠組みになりえた。」(山崎正和と三浦雅士との対談「アジア文明の誕生」『脱亜入洋のすすめ』)

 イギリス連邦といふ仕組みがすぐれて文明的なものであるとして、欧州がその文明化をする必要があるのであれば、英国が「自分たちのやうにしろ」と他の欧州諸国に言ふのでは、英国が「大きな枠組みの本家本元」になつてしまふ。それではたぶん欧州統合は無理であらう。英国が少なくとも「弱小なものにならなくてはならない」といふことを受け入れられるかどうかにかかつてゐる。

 シムズ氏には、さういふ見通しも覚悟もおそらくはない。しかしながら、他の欧州諸国に求めてゐる言葉は、むしろ自国の未来像を語つてゐると言へさうだ。それは、「英国化する欧州」は「欧州化する英国」によつて進む。もしそれをしも「漸進的にではなく、一気にせよ」と言ふのかどうか。今後も読売新聞はこの筆者に訊きつづけてほしい。

 

  本日の読売新聞には、フランスの経済学者のジャック・アタリ氏のインタヴーが載つてゐた。今度は、大陸からみたEUとイギリスの関係である。読み応へがあつた。

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